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船頭だより
歴史ブログ

本能寺の変の謎 一つの要因とは⁈ 〜保津川の船頭的史観〜

今年はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀が主人公ですので、必ず本能寺の変」の真相がドラマの作中の中で描かれることでしょう。

今日は、以前にもこの保津川ブログで書きましたが「本能寺の変」について書きたいと思います。

天正10年(1582)6月2日(旧暦)、 明智光秀の軍勢が京都本能寺を攻め込み、主君である織田信長を死に追いやります。

日本人なら誰でも知っているこの 「本能寺の変」ですが、光秀が主君信長を討ったという事実がありながらも、

なぜ、光秀は信長を討ったのかという動機が日本史上でも最大の謎といわれています。

総勢1万3千といわれる軍勢が丹波亀山城(亀岡)を出撃し、主君信長がいる京都本能寺を目指すまでの道中、

 光秀の心境はいかばかりであったことでしょう?

 その「本能寺の変」の謎に迫りたいと思います。


 さて、光秀は織田家臣団の筆頭格でありました。また信長により浪人から見出されたこともあり、光秀にとって信長は大恩人でもありました。

 この前置きが、謎を呼び、明智光秀という武将が「謀反人」「賊人」という汚名をきせられてしまい、光秀という武将の評価を大いに下げさせたことは事実で、江戸時代に明智家の子孫は「明智」という姓を名乗れなかったとまでいいます。また、あまりの突拍子のない光秀の裏切りに、後世の歴史学者や研究家は本能寺の変の原因を、多く説を挙げられ議論に湧かせてきました。

 ちょっと、代表的な説を上げましょう。

 まずは、光秀怨恨説

この怨恨説でも、いろんな話があり、

 

◆徳川家康接待役を解任され公然の前で恥をかかされたから。

 

◆丹波八上城で人質であった光秀の母を信長の命令により死なせてしまったため。

 

◆武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったことを、信長が

 

聞き、「おまえごときが何をしたのだ」と足蹴にされたこと。

 

◆坂本・丹波の光秀の領地を召し上げられ、まだ敵地の出雲・伯耆もしくは、岩見の国替えを命じられたため

 

と、まあ、他にも数々と説があります。

 

また、怨恨説以外に光秀自身の野望説、

しかも光秀単独犯ではなく、

 

黒幕説

も、まことしやか論じられています。

 

最近は、この黒幕が誰であったか?

 数々の黒幕の人物や勢力が上げられて、テレビ番組でも取り上げられ、本能寺の変を題材とした本なども書店でよく見ます。

 

ちょっと黒幕説を上げると…

 

◆足利義昭説

◆朝廷説

◆イエズス会説

◆羽柴秀吉説

◆徳川家康説

◆堺商人説(今井宗久や千利休など)

最近では、四国説、つまり長宗我部元親と関係の深い光秀が、信長の四国征伐を回避するために信長を討ったという説など。

沢山の説があります。

 

そこで今日は、亀岡在住保津川下りの船頭的「本能寺の変」の謎に迫っていきたいと思います!

 最初に述べたように、本能寺を攻めた光秀軍は丹波亀山城から1万3千の兵で出撃しています。

 

この中には、光秀親衛隊というべき部隊である近江衆や山城衆もいましたが、大半は自国の丹波衆が軍勢を占めていました。

 

つまり、いくら光秀が個人的に信長を討ちたくても、丹波衆が

 

YES

 

といわなければ光秀に着いていかないということです。

 

 もちろん、主君の言うことが絶対だから、光秀の言うことをきかないといけなかったと思われるかもしれません。

 

しかし、そのような主従制度が完全に確立されたのは秀吉の時代になってからなのです。

 

信長は兵農分離を推し進めて人物ですが、完全に信長軍団を確立出来ておらず、ただでさえ、全国にいたるところに征伐軍を派遣していたので、丹波の軍団のほとんどが寄せ集めの連合軍だったのです。

 

裏切ろうと思えば、いくらでも光秀を裏切れたはずです。

 

ということは、光秀が信長を討つことを主要な丹波衆は知っていたのではないか!?

というのが保津川下り船頭的「本能寺の変」の見解です。

 

つまり、「本能寺の変」の背景には丹波衆の意志が反映されていたはずなのです。

 

では、丹波衆の意志とは?

 

これまた、保津川下り船頭的見解でいくと、

 

丹波衆は、地方分権型の政治を求めていた。

 

しかし、信長の政策は、完全なる中央集権。

 

元来、丹波は「これ」といった君主や大名がおらず、「どんぐりの背比べ」のような小さい豪族が連合体となっていました。

 ※例えば、「甲斐の武田」・「越後の上杉」・「駿河の今川」・「尾張の織田」という地域(国)を代表するような戦国大名がいますが、丹波ではこの大名たちのように代表的な人物はいません。当時、赤井直正や波多野秀治などは、丹波の一首領の人物で、丹波の覇者ではありません。

 

信長も当初は、その丹波の連合体を認めていましたが、

 やはり、京の都の隣に連合体がいるのは目の上のたんこぶでありました。

 

信長は、これを光秀により掌握させ、丹波を我がものとしまし、信長型中央集権の政策を推し進めていきます。

 

 丹波衆のほとんどは、信長型政策を快く思っておらず、本能寺の変で光秀を利用した?

もしくは、光秀は主君信長と丹波衆との板挟みとなり、ついに丹波衆たちは光秀を担ぎ上げた…のではないか?

 昨今、一時期現代の日本でも道州制や地方分権が政治において語られていましたが、

 こう考えれば「本能寺の変」も単なる個人的な感情でおきた出来事ではなく、

 あきらかに、政治的な要因があったと思われるのです!

これを「信長の構造改革反発説」というそうですが、

「これが本能寺の変を起こした動機だ!」

というのは、少し強引ではありますが、このような丹波衆との政治的「からみ」も動機の一つの要因ではなかったか?

というのが保津川船頭的「本能寺の変」の見解です。

 

丹波衆が信長の構造改革に反発説

これが変の動機とまではならなくても、一要因ではなかったか?

という証拠ですが、

現在の亀岡や福知山では、光秀は名君であったという地元民の思いが強いことです。

福知山では神様となり神社に祀られているほどです。

江戸時代、明智光秀は謀叛人と烙印を押され、子孫は「明智姓」を名乗ることができなかった時代にも関わらず、丹波の民たちが光秀のことを誇りにしていたということが何よりの証拠です。

 

さあ、本能寺の変の真相を尋ねたい方なら、これは丹波の地に来るしかありません!!!

そのとき、京都を目指す際には保津川下りにご乗船ください!!!!!!

 

(さいたに屋)

以前の歴史ブログ↓

丹波に明智水軍がいた?丹波の筏師と明智光秀との関わり

明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」① 〜管領細川家にとって鬼門の地〜

明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」② 〜奮闘する丹波武士波多野氏〜

明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」③ 〜縺れた権力闘争と丹波動乱の時代へ〜

 

 

 

 

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