メニュー
閉じる

TEL 0771-22-5846

お問合せ時間 8時から17時
※番号をお確かめの上、お間違えのないようご連絡ください。

船頭だより
歴史ブログ

丹波に明智水軍がいた? 丹波の筏師と明智光秀との関わり

豊臣秀吉は、保津川の水運(筏)による建築用材の重要性に大変注目していた人物でした。

秀吉は、1583年(天正11)6月、天下統一を目指して大坂城築城に着手。
その大坂城の建築の用材を、効率よく運搬するには、その上流地域である丹波の木材が最適でした。
そこで、秀吉は、同年12月に保津筏師15名に対して「諸役免除」の特権を与えて、丹波材の筏流しに従事させ、建築用材の確保を図ります。
その1年前は、明智光秀と天下分け目の天王山での戦い「山崎の合戦」で勝利。そのすぐ1年後に保津川の筏師による建築用材確保に乗り出します。
その後も1586年(天正14)4月、京都東山の大仏殿を建立するに際しても、保津の筏師に対して先の15名と、さらに追加10名にも朱印状を出し、1588年(天正16)7月には保津川の上流である宇津をはじめ、保津と山本村の筏師50人に嵯峨までの用材運送を命じた朱印状を与えて、同年8月にも世木・田原・保津・篠村の筏師65人に飯米を与えて、筏流しのために取集するように、朱印状で命じています。

                  【1588年(天正16)に豊臣秀吉朱印状】

朱印状とは、戦国大名などが公式文書を出すのに「花押」という直筆のサインを書くかわりに、朱印を押した公式な重要文書です。
秀吉が、保津川の水運に着目していたのには、戦国の世が終わり、京都や大坂の町の人口増加による建設ラッシュと、それを補える良質で木材かつ大量の供給量と、腕の良い筏師が多いことが、このような大勢の採用に繋がったようです。
「丹波の筏師は腕良い」という知名度は、おそらく秀吉の時代以前から常識であった考えられ、つまり光秀統治の時代でも重要性が高まっていたことは間違いなでしょう。

                              【明智光秀の書状】

その証拠として、上記の書状は、年代は不明ですが、明智光秀が丹波の野々口西蔵坊らに対して命令を出した書状で、
建築のための材木を河原尻村から保津川端まで移送するように要請した書状があります。
「心柱」や「冠木」という用材名が具体的に記されていますが、この「心柱」や「冠木」というと、寺や城などの大きな建物の柱の名称なので、おそらく丹波亀山城築城のために、木材の確保の指示をしたものと推測できます。
宛先の名には小畠左馬進という名があります。この左馬進は、1579年(天正7)の八上城攻めの際に戦死しているので、上記の書状は、光秀が丹波攻略を命じられた1575年(天正3)からの間の書状であると思れます。

さて、明智光秀というと、生え抜きの織田家の家臣をより早く、城持ち大名に出世した武将で、当然戦上手であったことは間違いないのですが、ポルトガルの宣教師で、当時日本にきていたルイス・フロイスが記した『日本史』で、「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」と光秀を評しています。
光秀は、坂本城や丹波亀山城、そして福知山城などを築城していますが、その城の築城の仕方は、坂本城においては琵琶湖の水、丹波亀山城では保津川の水、福知山城では由良川の水と、湖や川を利用した築城をしています。当時まだ山城が主流だった時代、戦略的観点から物流の重要性に気付いていたとを伺えます。

                        【丹波国亀山城絵図】

上記の絵図は、1644年(正保元年)に江戸幕府が丹波亀山藩に命じて作成させた丹波亀山城下町の地図です。
光秀の時代より70年ほど後の地図ですが、保津川を利用した総構えの城であることは一目瞭然。
現に江戸時代に入ると保津川の筏流しは、保津・山本村に筏問屋が開設され、幕府が支配しながら地元である丹波亀山藩に委託することになります。

このように、保津川の筏流しは、明智光秀から豊臣秀吉、そして、徳川幕府の支配へと移り変わり、丹波の保津や山本集団・集落があったことも間違いありません。

ちなみに、明智光秀の書状で記されている野々口西蔵坊は、現在の亀岡市宮前町にある金輪寺の山伏であったといわれ、織田信長の事績を記した『総見記』には「本目ノ山伏」と記されています。また、信長の家臣の村井貞勝が京都四条大橋の橋柱を「西蔵坊之山」から運搬するように、同じく丹波の土豪の小畠左馬進へ命令を出しており、西蔵坊が丹波の山林を支配していたようです。
また、面白いことにに、本能寺の変に明智光秀の配下で従軍し、晩年にその時の状況を書き記したことで有名な『本城惣右衛門覚書』の本城惣右衛門は、野々口才蔵坊の家来でした。

この野々口西蔵坊が、丹波の山林と保津川の筏流しまで支配していることが立証できれば、その主君である明智光秀が保津川の水運も統括していたことになり、それが本能寺の変でも従軍していたと惣右衛門の記述にあるので、もしかすると筏で物資などを流して本能寺を攻めたということも十分考えれます
あくまでも憶測ですが、光秀が丹波の筏衆たちを支配し、戦や建築などで、その技術集団を活用していたということになれば、後付けですが「明智水軍」と呼んでも良いのではないでしょうか?

実際、光秀は琵琶湖で水軍を組織して、浅井勢に対して攻撃をしていますので、この丹波でもその組織集団が連携を図ったり、移住するなど、光秀の領地が近江坂本と丹波亀山であったことから「明智水軍」が組織されていたという仮説が成り立ちます。

さて、光秀に属して活躍した野々口西蔵坊ですが、山崎の合戦で明智光秀が滅亡したのちは、小畠家らとともに秀吉に転じ丹波の代官に任じたことそうです。そして、天正十二年、小牧長久手の合戦に先立つ伊勢亀山城攻めに丹波衆を率いて秀吉軍に従軍しますが、西蔵坊の消息は、以後、出てきません。西蔵坊なら、秀吉が丹波の山林にあれだけ着目していたのですから、かなり出世できたはずなのですが、、、歴史の表舞台には出てきません。これも謎です。

 

(さいたに屋

【関連ブログ記事】

弘法大師ゆかりの古刹・獨鈷抛山(とこなげさん)千手寺(せんじゅじ)

ページ先頭へ