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保津川下りとは

歴史

角倉了以と保津川

角倉了以坐像

保津川の舟下りが今日のように盛んとなったことについては、京都の豪商であった角倉了以の保津川の開削におうところが多い。了以は51才の時、かねてから思っていた保津川を開削して丹波と京都を結び、水運を利用して豊富な丹波の物資を京都に運ぼうと決心、慶長11年3月、周囲山に囲まれて難所の多い上、巨岩巨石が横たわり、しかも急流である峡谷を開削、水路を作る工事に着手した。そして幾多の犠牲を払い巨費を投じて、保津川は了以によって水運が築かれたのである。

彼は保津川の水運を開いただけでなく、京都の高瀬川を開いて京都と大阪を運河で結んだ他に、幕府の命を受けて天竜川・富士川の舟運も開いたのである。

保津川下りの終着点に近い嵯峨嵐山に舟がはいると右側の山腹に大悲閣(千光寺)が見える。この寺は了以が開削工事の犠牲者の霊を弔うために建立した寺である。了以翁の記念碑も建っている。

大悲閣行き方

文学と保津川

河畔での昼食

明治40年、文豪夏目漱石は、作品「虞美人草」を発表した、そこには「浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける、二人は丹波行の切符を買って亀岡に降りた。保津川の急湍は此駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油の趣をなす。岸は開いて、里の子を摘む土筆も生える、舟子は舟を渚に寄せて客を待つ・・・」と書き出し、たしかな筆で、舟下りと次々にあらわれる景観や舟頭の竿さばき等、あますところなく描かれている。

昔の旧嵐峡館付近

これ以後保津川下りは多くの人々に知られたことはいうまでもないが、中でも大正時代から昭和の初期にかけて、外人客に歓迎され京の町から二人力の人力車にゆられて老の坂を越え、舟下りを楽しむ青い目のお客が多かったことは、今も物語として伝えられ、山本浜の乗船場に通じる道に異人街道という異名がついたほどであった。

明治の詩人薄田泣董は、処女詩集「ゆく春」を琴の糸でゆわえ、石をつけて保津川の深渕に沈め、水神に捧げている。

昔の亀山公園入り口付近

他に明治では大町桂月、近代文学では水上勉「金閣炎上」野田宇太郎「関西文学散歩」井伏鱒二「篠山街道記」と数々の作品にあらわされている。

世界の人々に楽しまれて

昔の嵐山渡月橋

大正9年(1920)ルーマニア皇太子をはじめ、大正11年(1922)英国皇太子が国賓として我が国をご訪問の際、川下りをされ峡谷の景観とスリルを絶賛された。昭和4年(1929)には、英国グロスタニ公ご一行など国賓として招かれた諸外国の王族がお下りになった。戦後はアレキサンドラ内親王殿下をはじめ、ランドル駐日大使のの御一行や、昭和40年(1965)9月にはマーガレット内親王殿下、スノードン郷ご一行がお楽しみになっている。

国内では、大正4年(1915)に宮内大臣土方奉山公、大正15年(1926)には昭和天皇、秩父宮妃殿下、昭和58年(1983)に常陸宮妃殿下と皇族の方々もお下りになっている。また明治の将軍東郷平八郎をはじめ、多くの文人や有名人が次々と訪れ、渓谷美とスリルを楽しまれるとともに、素朴な舟頭の竿さばきの見事さにも驚嘆されている。このように世界各国から親しまれる舟下りである。

昔の一の井関昔の旧嵐峡館付近昔の保津川下り

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