明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑵ 〜奮闘する丹波武士波多野氏〜
応仁の乱以降、丹波の国の支配は、管領であった細川家が統治する時代でした。
細川政元は、権勢を維持する為に丹波衆を大いに利用しましたが、逆に同じ丹波の国人たちの一揆に苦しめられ上に、
丹波にいた養子の一人である細川澄之とその家臣に暗殺されました。
細川高国像(東林寺蔵 伝狩野元信筆 大休宗休賛)
政元には三人の養子がおり、
まず、細川澄之と細川澄元の対立が生じ、
三人目の養子細川高国が澄之を自害に追い込みます。
決勝戦というべき「澄元」対「高国」の対立は、永正8年(1511)足利義稙を擁立した高国が、大内氏・畠山氏・赤松氏などの有力大名を味方にし、『船岡山合戦』で澄元側に対して圧勝します。もちろん、ここでも丹波衆の活躍もありました。
この戦いを境に、高国政権を樹立しましが、澄元との争いはまだまだ続き、約10年近い戦いは、最終的には永正17年(1520)に澄元の病死という結末で戦いの終止符が打たれます。
細川澄元像(狩野元信筆 景徐周麟賛 永青文庫蔵 重文)
それから時が流れて5年、盤石となった高国政権に、やはり丹波衆が鬼門であるという事件がおきます。
高国側の丹波衆の中に、
波多野元清(稙通)という武将がおりました。
元清は、実弟に香西元盛と柳本賢治(かたはる)とともに高国政権の中枢を占めていましたが、
大永6年(1526)、高国の従兄弟に当たる細川尹賢(ただかた)の讒言により、香西元盛りが高国に謀殺されます。
これを機に、元清は高国から離れ、阿波の国の細川晴元(細川澄元の子)と手を結び、そして、氷上郡の赤井氏らの加勢も得て12代将軍足利義晴と高国を京都から追い出すことに成功。(守護代内藤国貞が丹波から追い払われる)
大永7年(1527)、桂川をはさんで高国方、元清の実弟である柳本賢治清方の激しい攻防戦を展開。
高国方には、別の丹波衆である宇津氏・荒木氏が加わって参戦しており、同じ丹波でも一枚岩出ないことがわかります。
この戦いでは、元清の息子の秀忠や、波々伯部氏・香西新兵衛(賢治の弟)などの丹波衆が主力で、そこに阿波三好氏の援軍が加わり、高国軍を破り京都を制圧し、高国は将軍義晴と共に近江に逃げました。
細川晴元は阿波から渡海し、足利義維を擁立、堺にいながら京都および山城・摂津を支配しました。
これを「堺幕府」と呼ばれることとなります。※堺公方とも呼ばれる。
この後も細川高国は、越前朝倉教景・近江六角定頼らを味方につけ京都奪還に攻め寄せますが、波多野秀忠や賢治は、三好元長と赤井氏も加わって撃退しています。
ところが、年が明けた大永8年(1528)、細川晴元の意を受けた三好元長が、細川高国と和議を結んでしまいます。
このため、波多野元清は三好元長と敵対していた三好政長と手を結び、波多野氏は三好元長との確執ができてしまいます。
この堺幕府に大きく貢献していた丹波衆でしたが、
細川晴元と三好元長に裏切られた形となり形勢逆転。
享禄3年(1530)、高国・国貞と通じた浦上村宗により弟賢治が播磨国内で謀殺され、翌年、元清自身も、摂津池田城を高国方に攻略され自刃しました。(この時、どういう訳か、息子波多野秀忠が父元清を死に至らしめている)
こうして波多野氏が権力中枢にいた時代は短期で終わりますが、細川高国も摂津尼崎で三好元長に討たれます。
(大物崩れ/だいもつ)
つまり細川高国は、ライバルであった細川澄元の子晴元に親の仇討ちとして討たれたことになります。
これにより、足利幕府で後見となり、管領として幕政を主導した細川家嫡流は(京兆家)、往年の権勢を取り戻すことはありませんでした。
丹波武士の多くは、丹波の国から出ることはなく、地の利を生かして籠城戦を得意としていましたが、この波多野氏の場合は、丹波から出て覇権を競い合った稀有な一族です。そして、一時とは言え、京都を制覇した一族でもあります。
そして、丹波衆の勇猛さを植え付け、戦国の世に名を知らしめました。
しかし、幕府の弱体と京兆家(細川)の争いに上手く乗っかたのが、三好氏となり、畿内に覇を唱える有力な大名となります。
この時代の一番の曲者と人物が現れます!
その名は三好長慶。
このお話は次回以降に…
これ以後、丹波も大きく翻弄されて行きます。
(さいたに屋)