明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑴ 〜管領細川家にとっては鬼門の地〜
保津川下りが出発する亀岡は、明智光秀が生きた時代『丹波』の国と呼ばれました。
今日は、その丹波の国の歴史を、明智光秀以前、どのような歴史を辿ってきたか、少しですがお話をししていきたいと思います。
(保津川下り乗船場)
さて、丹波は京都の西隣に面した土地で、南北朝時代から戦国時代にかけて主権が激しく変わる土地でした。
例えば、戦国武将で代表されるような、
甲斐の武田、越後の上杉、駿河の今川、尾張の織田というように、
丹波の国では代表する当主は光秀以前に出てきません。
理由は、丹波は「山々」「盆地」「山々」「盆地」「山々」と続く地形で、その土地土地で各地の国人が固い結束で結ばれて治められているお国柄だからです。
南北朝時代には、北朝・南朝の争いに巻き込まれ、当時「山名氏」と「仁木氏」という2大勢力が丹波守護職めぐって激しく争っており、そこへ室町幕府管領でる細川家同士の権力闘争にも大きく交わり、より混沌とした時代となっていきます。
(細川政元像/龍安寺蔵)
戦国時代の丹波の歴史に置いて、まず最初に欠かせないのが細川政元という人物です。
応仁の乱で有名な東軍の総大将細川勝元の息子の細川政元(幼名六郎 総明丸)は、病死した父勝元の後継として、わずか8歳で家督を継ぎ、その5年後、8代将軍足利義政から「政」の字をもらい受け、政元と名乗り管領に任じられます。
この細川政元によって丹波を支配した構図になりますが、
管領細川政元は、10代将軍足利義稙を追放したり、比叡山の焼き討ちを行ったり、畿内周辺にも出兵したりとかなりの覇権を握ります。
そして、この時に政元中核的な部隊は丹波衆だったのです。
例えば、明応8年(1499)7月、比叡山中堂に籠もった桃井氏を追討するために政元が派遣した軍勢は、いずれも丹波衆でる波々伯部(ははかべ)五郎・赤沢宗益・波多野清秀の兵でした。
しかし、永正4年(1507)、政元は、丹波の国人である丹波衆たちの一揆に苦しめられ、また自分の後継者争いも合間って、丹波にいた養子の一人である細川澄之と、その家臣らによって暗殺されてしまします。
この細川澄之は、同じく政元の養子である細川澄元に敗れて、澄元が政権を握りますが、波多野清秀の子元清が、
丹波守護代内藤貞正らとともに、もう一人の政元の養子である細川高国の支持に回ります。
わかりにくくなりましたので、ここまで構図をご説明したいと思います。、
室町幕府管領であった細川政元は養子である澄之と、その家臣たちに暗殺されます。
政元は、生涯独身で実子はなく、後継者に「澄之」・「澄元」・「高国」という三人の養子がおりましたが、丹波衆たちは、管領職争いに大きく影響を与える存在でした。
まさに細川家にとって鬼門といういうべき土地。
その鬼門というべき丹波の勢力争いは、ここから尚激しくなっていきます!!
(さいたに屋)