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船頭だより
歴史ブログ

明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑶ 〜縺れた権力闘争と丹波動乱の時代へ〜

室町幕府管領で細川京兆家当主である細川高国と、義理の兄弟であった細川澄元の息子晴元の争いでは、畿内に広域に波及し

丹波国中でも2つの権力に別れ、戦いを各所で繰り広げていました。

保津川下りの出発地、「保津」での記録を追ってみますと、

享禄4年(1531)5月23日に「丹波保津内藤彦七討ち死に…」とあり、内藤彦七は高国方に属し、保津の城を守っていたようです。

そこへ、細川晴元方に組みする柳本軍(賢治余党)らに攻めららたようです。

「実録公記」・「二水記」という資料に残っています。

 

話がややこしくなってきたので、もう一度、時代背景を整理すると、

 

丹波を支配していたのは、京兆家といわれた細川家でありました。

その名門細川家の当主細川政元には実子がなく、政元暗殺を契機に、

後継者争いとして、

 ■澄元方(子晴元)

 ■高国方

とに分裂しました。

さらに、足利将軍も

 ●義澄→義晴→義輝 と 

 ●義稙→義維(堺公方)→義栄

の二つ系統に分裂し対立していました。

各大名や国人たちは組んだり、離れたり、裏切ったり、裏切られたりの繰り返しの中、丹波の地は戦国時代の渦潮に飲み込まれて、各地で争いが絶えない舞台の中心の一角となりました。

その最たる出来事が、細川晴元と足利義晴が和睦です。(それまで対立していた同士が和睦)

この和睦が他の地域の国衆同士が対立構造をややこしくします。

この時の権力者だったのが細川高国でしたが、高国は晴元に滅ぼされて、堺公方(堺幕府)擁立しますが、この幕府は短命で終わります。

その原因が、時の将軍・義晴と和睦し、その管領に就こうとした為、堺幕府の有力な大名だった阿波の三好元長と対立してしまします。(三好元長共に戦ったのが丹波衆の柳本賢治でした)

 

●最高権力者だった細川忠国は、波多野氏の系統の香西元盛を謀殺下ため、丹波衆の柳本賢治は反高国に…(この柳本賢治がかなり畿内で大暴。)しかし、最終的には賢治は高国方に謀殺される。

●細川高国は、阿波の三好元長に討たれる。享禄4年(1531年)、この事件を「大物崩れ」と呼ばれる。

●細川晴元は山科本願寺に働きかけて一向一揆を蜂起させ、三好元長を討つ。

 

細川晴元からすれば、

細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良かったという事でしょう。

高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集しました。

その中には丹波衆ももちろんいたのです。

その代表が波多野秀忠になります。

波多野秀忠は、波多野元清(稙通)の子と考えらています。

秀忠は、丹波篠山盆地を見下ろせる八上城を拠点として領域を支配し、細川晴元方に組してからは内藤国貞に変わって、事実上丹波守護代となったと考えられており、秀忠は丹波国内の勢力を拡大をしていく一方で、赤井氏など提携をして周辺諸国に影響力を広げました。

これを「丹州守護」と呼ばれたそうです。

※この波多野秀忠の書状がかなり残っています。(領地安堵や代官職の任命など)

天文9年(1540)、秀忠は三好長慶に娘を嫁がせて三好家共に細川晴元政権を支えてました。

天文14年(1545)、細川高国の養子でる細川氏綱に組みしている内藤国貞が丹波で挙兵しましたが、秀忠らに鎮圧しされます。秀忠は波多野氏の力を見せつけますが、翌年天文15年(1546)を境にして、「秀忠」と明記された史料がなく、おそらく死去したか表舞台から姿を消します。

(三好長慶像 大徳寺聚光院蔵)

●この時、丹波では丹波守護代として波多野氏と内藤氏に分裂していたらしく、かなり丹波は混乱した時代であったようです。

●もしくは、建前上は守護代は内藤氏。実質的は波多野氏が守護代の権力を持っていたという事かもしれません。

●この長きわたる細川京兆家の争いで、丹波は動乱時代であった事は間違いないようです。

波多野秀忠から嫡男元秀が家督を継ぎます。

天文15年(1546)から天文17年(1548)まで、丹波は攻め込まれたり、攻め込んだりということが続きますが、

丹波における波多野氏の勢力は絶対的なものだったようで、現に波多野元秀は、代替わりの礼に内裏に参上し、また馬や太刀を献上しています。この時が波多野氏絶頂期だったと言えます。

ところが、

天文18年(1549)、三好長慶は細川晴元、前将軍義晴、将軍義輝を京都から追い出しています。

この時、長慶は秀忠の娘とは離縁し、三好・波多野氏の協調が破れ、秀忠から跡を継いだのが波多野元秀は、以後、反三好勢力の中心として晴元を支えます。

 

波多野秀忠に敵対していた、丹波守護代の元祖というべき内藤氏の当主内藤国貞(貞正の子)は、三好長慶に組しています。

内藤国貞は、保津村上、桂、長尾御一統宛に出した感状が残っており、「村上」、「桂」、「長尾」という家は、『保津の五苗』といわれ、昔から保津の土着の郷士とです。

どうやら保津川周辺の地域は代々、細川高国、またその養子である細川氏綱側として戦っていたようです。

 

そもそも、三好長慶は、細川晴元側でしたが、

晴元が三好政長を取り入れたため、長慶が敵対側であった細川氏綱の陣営に走った形となります。

 

室町幕府 12代将軍足利晴元像 京都市芸術大学芸術資料館蔵

ここから、三好長慶による丹波攻略が始まり、壮絶な争いが続きます!!

 

(さいたに屋)

 

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