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船頭だより
歴史ブログ

その昔、渡月橋は150mほど上流に架かっていた

嵐山のシンボルともいえる「渡月橋」

室町時代の頃は、現在の場所より150mほど上流に架かっていたといわれ、

その証拠が嵯峨の鹿王院という寺院に残っています。

鹿王院

それは「応永釣命絵図」という応永年間に描かれた当時の地図から確認できます。
応永釣命絵図(鹿王院蔵)
この地図と現代の地図とで見比べてを見ますと、、、、、
明らかに、中之島より上流ですし、渡月橋の南側にあ櫟谷宗像神社より上流に橋は架かっていることがわかります。
ここで応永釣命絵図について、鹿王院にある説明文を引用したいと思います。
以下の通り、
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【応永釣命絵図】(おうえいきんめいえず)
応永33年(1428年)、四代将軍·足利義持の命により臨川寺住持月渓が制作し、天龍寺に伝わったものを鹿王院虎岑(こしん)和尚が江戸前期の元禄年間に写したもので十五世紀前半の嵯峨一帯の絵地図です。
足利尊氏·直義弟は、後醍醐天皇の鎮魂のため、暦応2年(1339年)夢窓疎石(むそうそせき)を開山として天龍寺を創建した。この結果十五世紀前半には天龍寺正面の天下龍門に通じる東西道路と山門前を横切る南北道路を主要路として五山天龍寺と十利の第二臨川寺·第五宝幢寺(鹿王院)の禅剰三ヵ寺が核となり約百五十カ寺に及ぶ塔頭(たっちゅう)からなる夢窓疎石を始祖とする嵯峨門派と呼ばれる一大禅林が出現し、その全盛期の絵地図であることは間違いありません。周囲門前には寺家被官層の居住区や大工·木版エ·金融を担当した土倉などさまざまな商工業者の在家などを付嘱させ複合的な門前都市領域を形成されました。大堰川河畔には丹波からの物資に課税する河関が設けられていました。
しかし嵯峨門派の一大禅林は応仁3年(1468)9月7日の応仁、文明の乱の戦火ですべて焼失して、その後は諸塔頭の経済的基盤であった荘園は武家の押領にあって次第に失われて再建は実現せず衰退の一途をたどりました。現在も当時のままの位置に残るのは、天龍寺、臨川寺、鹿王院、金剛院のみです。
宗派の寺院では大覚寺、釈迦堂清涼寺、二尊院が現存しています。
なお、この地図から大堰川に架かる天龍寺が管理した「渡月橋」の位置は現在より約150メートルが上流にあったことが分かります。
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 この地図を見て伺い知れることは、天龍寺の南側(地図上真下)に渡月橋が架かっているということです。
もとの橋は「十三参り」で有名な法輪寺に因んで、836年(承和3年)に空海の弟子である道昌が架橋したのが始まりとされ「法輪寺橋」と称されていました。
 鎌倉時代に亀山上皇が大堰川(保津川)で舟遊びをされた際に、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べられ「渡月橋」と命名されましたが、幾度となくも洪水よって流失する橋でした。
 そのような時代を経て室町時代に入り、京都五山の第一として大堰川(保津川)の北側に天龍寺が創建されました。
天龍寺は丹波からの筏物流の課税を得る利権を持ち、その収益によって橋を架けられていたことが上記の説明文からも伺えます。
つまり「応永釣命絵図」での渡月橋は、天龍寺が管理していた橋であったという証拠なのです。

角倉了以木像(大悲閣千光寺蔵)

ところが、応仁、文明の乱など戦乱によって橋は焼失し、天龍寺もたびたびのその戦乱の影響により何度も火災、創建当時の建物はことごとく失われてしまいました。
※当時の天龍寺は寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので土地を有し、子院159か寺を数えたといわれています。

そして、最終的には1606年(慶長11年)、豪商・角倉了以による保津川の舟運開削工事とともに現在の位置に渡月橋が架けられたのでした。

(さいたに屋)

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