琴きき橋に伝わる物語
渡月橋は嵐山のシンボルであり、絶えず多くの観光客が訪れる観光スポットですが、
その渡月橋の北詰に
「琴きき橋跡」
と刻まれた石碑があります。
この「琴きき橋」には、とても美しくも切ない恋の物語があります。
そのお話のヒロインは小督局(こごうのつぼね)
藤原成範の娘。
時は平家全盛の平安時代最末期、時の帝、高倉天皇が琴の名手で京都一の美貌とまでいわれた小督を寵愛したところからはじまります。
しかし、高倉天皇の中宮(后)は平清盛の娘徳子であり、小督のことを知った清盛は大変怒り、平家からの小督に対する圧力は凄まじいものでした。
自分の身が危ういことより、自分を愛してくれる高倉天皇にわざわいがふりかかることを恐れた小督は、ひそかに宮中を去り嵯峨野に隠れてしまいます。
高倉天皇は、小督がいなくなったことを深く悲しみ、源仲国に小督を捜すように命じます。
仲国は8月10日(陰暦の十五夜)、名月の夜なら琴を弾いているにちがいないと思い、千代古道をたどり嵯峨野辺りを訪ね馬を走らせます。
『平家物語』では、仲国が小督を捜している様子を次のように描いています。
「亀山のあたりたかく松の一むらのある方に、かすかに琴ぞきこえける。峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したる内に琴をぞひきすまされたる。ひかれて是をききければ、すこしもまがふべうもなき小督殿の爪音なり。……」
「牡鹿なく、この山里」と詠われている嵯峨野の秋の空は澄み渡り、片折戸の家を頼りに馬を走らせ、
もしや、この家であるまいか、この家であるまいかと訪ね寄りますが、琴弾く人はいません。
いつしか、法輪寺辺りまで来て馬を止めると、何処からか、かすかな琴の音が……
峰の嵐か松風か、それとも尋ねし人の琴の音か……
よくよく聴くと、楽曲の音が聞こえる……
それは唐楽の曲、『相夫恋』という帝ことを想い奏でた曲でありました。
この調べは小督に違いあるまいと、その家を訪ねて…
仲国も笛の名手あるので、鳴り響く琴に対して、笛の音色を合わせます。
小督に会えた仲国は、高倉天皇から賜った文を渡し、宮中に帰るように伝えます。
文をもらった小督は、自分のことを想う高倉天皇の深い御情に感激し涙し、
仲国に、文の返事を渡します。
やがて、お迎えの車が参りますと言い残し、仲国は舞ような気持ちで都へと帰っくまでが、
謡曲でのお話し。
「酒宴をなして糸竹の、こえ澄み渡る、月夜かな……」
あり、
「糸」とは小督の琴。
「竹」とは仲国の笛と二人を例え、
「糸竹のこえ澄み渡る月夜かな…」
と木枯らし吹く嵐山と満月の光が二人を照らすのでした。
謡曲では、ハッピーエンドで終わますが、現実はそんなに甘いものではありません。
二人はひっそりと逢瀬を重ね、中宮徳子よりも早く高倉天皇の子供を産みますが、しかし、またも清盛の知るところとなり、小督の髪を剃り出家さされ、二人は引き裂かれます。
哀れかな、高倉天皇は、若干21歳で崩御され、東山にある清閑寺に葬られます。
尼となった小督は、清閑寺近くにに住み、高倉天皇の菩提を弔いながら44歳まで生きたとされます。
(清閑寺に伝わる小督の琴)
歌人藤原定家が病気療養していた小督を見舞ったという記録がありますが、藤原俊成の娘健寿午前の日記にも晩年の小督を見たと記されています。
小督の墓は、清閑寺の高倉天皇陵に寄り添うようにあり、今や二人を引き裂くものはありません。
小督の娘範子内親王は建礼門院徳子の養女となり、賀茂斎院の斎王に、最後は土御門天皇の准母なります。
この美しくも悲しい物語のゆかりの地が、保津川下りの着船場すぐにあります。
小督塚
渡月橋北詰め、旧嵐山ホテル跡すぐ
駒留橋跡
渡月橋南詰めすぐ。
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