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船頭だより
歴史ブログ

金閣寺が焼失して70年

世界遺産に登録され、京都を代表する観光名所といえば、

やはり金閣寺でしょう!!

 金閣寺(きんかくじ)は、臨済宗相国寺派の寺。相国寺の山外塔頭。正式名称は北山鹿苑禅寺といい、黄金の楼閣で知られる金閣は寺でいうところの舎利殿にあたり、「金閣寺」という名称は俗称です。

「金閣寺」の名が広く用いられるようになるのは、意外に新しく江戸時代になってからのようです。

寛文四年(1664)四月、京都を訪れた江戸の国学者石出常軒(いしでじょうけん)が書き記した『賞歴日記』という日記の中に「俗に金閣寺と云う」と、金閣寺のことを記しています。

また、延宝六年(1678)、『京童跡追』二という京都の地誌にも「鹿苑寺」に「世に金閣寺と云う」と注釈があり、この頃には金閣寺の呼称が広く流布していたようです。

つまりは、江戸時代に入り、太平の世の中になったことにより、京都に観光として訪れる人々が多くなり、金閣寺に訪れる人々もいたが考えれます。

                                                                                              足利義満像(鹿苑寺蔵) 

 さて、この金閣寺ですが、室町幕府3代将軍だった足利義満(1358〜1408)が、応永年(1397年)、公家の西園寺家からこの地を譲り受け、改築と新築によって一新し、山荘として「北山殿」または「北山第」と呼ばれた邸宅としてできました。
この時、義満は将軍職を実子義持に譲り、一応は政治の表舞台から退いていましたが、日明貿易に乗り出し、その利益で「北山文化」(建築・宗教・絵画・文学・彫刻・芸能)を大きく発展させました。
義満が建造した当時の北山殿は、現在の金閣である舎利殿のほか、仏殿や書院、不動堂、泉殿などで構成されていましたが、あくまでも隠居所であって寺院ではありませんでした。
北山殿が寺院になったのは、義満が亡くなってからで、鹿苑寺となり歴代の室町将軍によって保護されますが、応仁の乱(1467〜1477)で西軍の陣となり、建築物の多くが焼失し荒廃してしまいます。(舎利殿の金閣は焼失から免れる)

その後、豊臣秀吉や徳川幕府によって金閣寺の修理修復がなされ、なんとか復興することができました。

                                                                                       (明治二十年〜三十年ごろの金閣寺)

 

ところが、昭和二十五年(1950)7月2日未明金閣寺の学僧(当時21歳)により放火され金閣寺は全焼。
幸いにも人的被害はありませんでしたが、国宝の舎利殿や足利義満木造(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点が焼失してしまいました。

 

 

この事件を「金閣寺焼失事件」といい、世間を大変震撼させ、この事件を題材に、三島由紀夫『金閣寺』や水上勉『五番町夕霧楼』で小説となり、水上勉は、その後、各方面の取材を続け1979年にノンフィクション『金閣寺炎上』を出版しました。 

 

金閣寺は焼失して5年後、国や京都府の支援、地元の経済界、そして全国の人々の寄附金により再建され、明治期の大修理の際に詳細な図面が作成されていたので、きわめて忠実に建てることが出来ました。

このように焼失してしまった金閣寺でありましたが、金閣寺を愛する多くの人々の手により再建され、金色の光を取り戻し現在の私たちを魅了し続けています。

 

 

 実は、この「金閣寺放火事件」と保津川には、話の顛末として非常に関係が深く、また悲しい出来事がありました。
そのことについては、実際に保津川下りの年配船頭から聞いてみてください。お話できる船頭もいると思いますで…

 

(さいたに屋)


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