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船頭だより
歴史ブログ

亀岡のパワースポット【宮川神社】〜丹波古代史の謎〜

保津川下りの船頭たちが住む亀岡市は、その昔、丹波国という地名でした。
 
 
 この丹波国の生業の歴史は古く、その証拠に、磐座を祀る神社が非常に多く点在しています。
磐座(いわくら)は、古神道、つまり神社などの社が建つ以前、古代の人々が岩石に崇拝していた信仰のことで、自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)から、岩や石などに神が宿ると考えられ、古代の日本人は、磐座を聖なる地と崇め、岩や石が御神体であったり、神が岩に降り立つ場所であったり、または五穀豊穣の祈願・感謝・恐れ(畏)を神事(神楽)などの儀式が執り行う場所という概念があったようです。
 
 今日は、そんな丹波の古代史の謎に迫れる場所として、宮川神社をご紹介したいと思います。
 
 
  宮川神社は、湯の花温泉から少し西に進んだ場所(亀岡市宮前町)にあり、
延喜式内の神社で、昔は神野神社と呼ばれていました。
延喜式内とは、延長5年(927年)に日本全国の神社が記録された延喜式神名帳に記載された神社であるということで、
宮川神社が非常に古い神社であることがその記録からもわかります。
 
ご由緒を調べていると以下の通り、
——————————————-ご由緒————————————————————
 
祭神に伊賀古夜姫命、誉田別命の二神を祀る。
当社の創建は文武天皇大宝年間(701から708)山上に伊賀古夜姫を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し延喜式にいう神野神社に比定される。また誉田別命(八幡大神)は欽明天皇32年(571)に宇佐八幡宮より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ、今に社地を八幡平という。天正5年(1577)明智光秀と波多野秀治の合戦の際、両社とも焼失し、その後落雷や不作が続いたので正保4年(1647)山麓の現在地に社殿を移し二神をあわせ祀り名称も宮川神社と改めたと伝えられる。伊賀古夜姫命は京都下鴨神社の祭神玉依姫の母神であり下鴨神社と関係が深く葵祭の行列には氏子青年が奉仕に参加している。
 

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                          〈社殿〉
 このご由緒には、祭神である伊賀古夜姫(いかこやひめ)は、京都の下鴨神社の祭神玉依姫の母神とされます。
そこで、下鴨神社の伝説をまとめた『山城国風土記』という平安遷都以前の山城国の文化風土や地理的状況などを記録した地誌を読んでみると、非常に筆者が興味深い伝説が伝わります。
 
以下、『山城国風土記』の中から、賀茂社についてまとめら部分を切り取ってみました。
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日向(いまの宮崎県)の曽の峰に天降りした賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が神武天皇の先導として大和に入り、葛城山の峰に住みました。やがて、山代(山城)国岡田の賀茂(現在の相楽郡加茂町、岡田鴨神社がある)にうつり、ついで木津川を下り、今度は賀茂川(鴨川)をのぼって、久我(賀茂川上流の古称)の国の北の山麓におちついたとというのです。
 建角身命はそこで丹波国の神野の娘を妻にして、二人の子どもが生まれました。あるとき、妹の玉依日売(たまよりひめ)が瀬見の小川で川遊びしていると、上流から丹塗りの矢が流れてきました。拾いあげて床に置いて置いたところ、妊娠して男の子が生まれたのです。
 子ども成人し、酒宴が開かれたとき、祖父の賀茂建角身命が「お前の父と思う人に、この酒を飲ませなさい」といいました。するとその子は、酒杯をささげてて天に向かって祭りごとをしたのち、屋根をつきやぶって天に昇ってしまいました。そこで建角身命は、その孫を賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)と名づけたと記されています。別雷神をまつったのが上賀茂社(賀茂別雷神社)で、建角身命と玉依日売をまつったのが下鴨神社(賀茂御祖神社)です。ともに、雷や水をまつる農耕神だったようです。
【京都千二百年(上)】より
 
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 この『山城国風土記』から読みとってみると、宮川神社の祭神である伊賀古夜姫は、賀茂氏の始祖である賀茂建角身の妻であることは間違いないようです。その関係から、ご由緒にもあるように宮川神社の氏子の青年たちが下鴨神社の祭である葵祭の行列に奉仕されています。(丹波国の神野の娘=伊賀古夜姫
 
 上記の系図から、『山城国風土記』神名を神社で示してみました。
するとこの伝説に出てくる神の神社は、上賀茂神社・下鴨神社・松尾大社・宮川神社であり、全て磐座信仰の神社なのです。
ちなみに、下鴨神社の境内には出雲井於神社(いずもいのへ)があり、建速須佐乃男命(すさのおのみこと)を祀られていますが、下鴨神社の西側の地域には出雲氏が勢力地していた地域であり、「出雲路」などの地名も残っています。
賀茂氏と出雲氏は、同祖であるといわれていて(下鴨神社の社伝により)、亀岡の出雲大神宮(元出雲)にも磐座があり、ある著名なスピリチュアルを研究されている方がおっしゃられるには、出雲大神宮の磐座は「関西で一番のパワースポット」と言われてたそうです。
    出雲大神宮(亀岡市)
 
 
出雲大神宮の磐座
 
 
 
           (宮川神社と出雲大神宮のち関係:亀岡版)
 
 今回、私筆者は、宮川神社をMAPで見てみると、あることに気付きました。
それは、宮川神社と出雲大神宮が、東へと一本の線で繋がることです。
これは「レイライン」ではないか?と考えています。
「レイライン」とは、古代信仰である磐座信仰や、山岳信仰などの聖地を、点と点で線で繋がるラインのことです。
例えば、太陽や月などの天文を聖地で結び稲作の時期などの暦を読んだり、巡礼の道や、死者の霊を送るルートなど、古代の人々が非常に重要にしていたラインを大事にしていたので、そのラインに位置する場所が聖地となるということも考えられます。
(京都広域のレイライン)
 
 亀岡だけでなく、京都広域でマップを見てみると、宮川神社から東への直線には、
(宮川神社→出雲大神宮→愛宕山→上賀茂神社→比叡山→日吉大社)
と、磐座信仰と山岳信仰とで繋がります。
これまた、ちなみに日吉大社 の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)であり、この大山咋神は松尾大社と同じ神なので、このことも非常に面白いです。
 
 
 
 さて、肝心の宮川神社の磐座ですが、現在は、社殿の後ろにもたれかかるようにあります。
もちろん、磐座の方が古いので社殿は後に建てられたもののはず…
 
 
 
 
宮川神社のご由緒には、
「明智光秀と波多野秀治が激しい攻防戦を繰り広げたようで、元社は焼失してしまいますが、正保4年(1647)に現在地に社殿を移しています」
とあるので、神社自体はこの場所ではなかったかもしれませんが、この場所を神尾山と呼ぶので、この山一体が磐座の塊ではなかったかと思います。
境内は、静寂な空気に包まれ、清らかな谷水が流れています。
ここに訪れると、古代の人々が聖地とした場所であることがすぐにわかるはずです!
 
宮川神社は、古代のロマンが湧き立つ、亀岡のパワースポットであることは間違いありません!!
 
 
(さいたに屋)
 
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