祇園祭は古代イスラエル(ユダヤ)がルーツ⁈
今日の京都は祇園祭前祭の宵山です。
そして、7月17日は山鉾巡航(前祭)です。
祇園祭は、
日本三大祭のひとつで、千百年の伝統を有する八坂神社祭礼で、
古くは、祇園御霊会と呼ばれ、869年(貞観11)、
京の都をはじめ全国的に疫病が流行したとき、人々はスサノオの祟りと考え、
神泉苑で当時の国の数66カ国にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(スサノオの本垂)祭り、神輿で出して災難を除去を祈ったのが始まりとされます。
平安末期には疫病神を鎮め退散させるために、神輿渡御や神楽・田楽・花笠踊り、山鉾を出して町中を練り歩く祭礼として発展しました。
その後、応仁の乱や第2次世界大戦などでの中断はあるものの、千年以上の歴史を誇る祭りとして続き、京都のみならず日本を代表する祭りとして大変有名です。
今日は、その祇園祭の謎に迫りたいと思います。
その謎とは、祇園祭が古代イスラエル(ユダヤ民族)との関係があるという説です。
祇園祭では、それぞれの山鉾で厄除けの「ちまき」をいただきますが、
そこには、
「蘇民将来之子孫也」
と書かれており、このちまきを家の玄関にかざるとスサノオの災いから逃れられるという言伝えから、この風習が伝わります。
このことは、『釈日本記』にある『備後風土記』から伝わるようです。
ちょっと、ご紹介しますと
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むかし、むかし、
あるところで、スサノオが泊ま宿がなく困っておりました。
スサノオは、ある裕福な巨旦将来の家に行き宿を求めましたが、
巨旦将来は、「食べ物もなければ部屋もない」とスサノオを追い払いました。
そこでスサノオは、巨旦将来の兄、蘇民将来の家に立ち寄ったところ、
蘇民将来の家は貧しいながらも、スサノオをこころよく迎え入れましたので、
スサノオは、そのお礼に「蘇民将来の子孫」と書いた茅の輪を門前に飾れば難を逃れられると約束しました。
その後、蘇民将来の家は代々栄えましたが、巨旦将来の家は、災いや疫病により子孫は絶え滅びてしまいまいした。
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こ門前に茅の輪の伝説が伝わり、祇園祭の「ちまき」の風習となったわけです。
さて、この伝説のお話しは、実はイスラエルの「過越祭」の内容が酷使しているといわれ、
これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷となり苦しんでいた時、神がモーゼに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因し、その神の救いを記念して「過越祭」が行われています。
「蘇民」という言葉も「民が蘇る」という意味でもあるので、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しんでいたところを、民の誇りを蘇るという意味にも読み取れますし、また、祇園祭のメインイベントである『山鉾巡行』は7月17日に行われますが、
この7月17日というのは、ノアの箱舟が地上に降りた日でもあり、
そいえば、祇園祭でも船を模様した『船鉾』があります。
祇園祭の「ギオン」という言葉も古代ユダヤで行われていた「シオン祭」からきたのではないか?
また、山鉾にはタペストリーが前掛けといてつけられていますが、
この上の写真「水を供するリベカ」は、ユダヤの教典・タナフの中の一節に描かれており、
このタぺストリは、ベルギー・フランドル地方で製作さらたもので、1718町内に住む豪商・沼津宇右衛門によって函谷鉾に寄贈されました。
1718年は江戸時代で、「暴れん坊将軍」で有名な 8代将軍徳川吉宗の時代です。
この時代はキリスト教が禁止されていたので、聖書などは禁書だったのでタナフの一節の絵を飾るということはご法度だったはずです。
それなのに祇園祭に用いられていたということは不思議なことなのです。
また、久慈力氏の著書『祇園祭の大きな秘密』の中で、
「祇園という言葉は、日本語でも中国語でも韓国語でも説明がつかない。インドの言葉で説明されても納得いかないだろう」
と述べています。
祇園、「ギオン」という言葉が古代ユダヤの「シオン祭」から来ているという説で、「シオン」とはエルサレムの別名で、ヘブライ語で「ツィオン」と呼ばれ、英語圏に入り「ザイオン」とか「ジオン」となり日本に来て「ギオン」となったというのです。
つまり、
日本は古来、古代イスラエル(ユダヤ)の影響を受けてという証拠であり、永きにわたる時間を通って、今の私たちの生活に根づいてきたという説なのです。
もちろん、この説は日本の歴史学会で信憑性のないことから認知されていません。
しかし、このような時代の流れは、証拠になる書物などで判断されるものでなく、
当時から続く祭りや風習などの共通点などを検証することが大事だと思います。
私が思うには、この日本と古代ユダヤの関係については、平安時代に巨大な権勢をほこっていた
「秦氏」
が大きく関わっていると思っています。
【 宝冠弥勒 木彫/広隆寺蔵】
そして、秦氏は、応神14年(283年)百済(朝鮮半島)から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる渡来系の豪族ですが、その秦氏は東アジアに景教(古代キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人の末裔という説があるのです。
その説が元で、祇園祭がイスラエル(ユダヤ)との関連性があるでは…
という説が生まれたのでした。
本当のことはわかりませんが、非常に浪漫を感じせる話であり、そういう視点から祇園祭を見物するのも一興だと思います。
(さいたに屋)