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船頭だより
歴史ブログ

丹波鎮守の杜を巡る旅【走田神社】シリーズ⑹

 京都府亀岡市の土地の形状は、亀岡盆地のほぼ中央流れる保津川(桂川)と、四方に囲うように連なる山々と豊な田地が広がる土地といえます。太古の昔、亀岡盆地は湖であったという伝説があり、朱色(丹色)に染まった水面が波打つ姿から「丹波」と呼ぶようになったと、以前のブログにもご紹介しました。
この伝説は、出雲神話で有名な大国主神の命令で保津峡谷を切り開いて水を流し、土地を干拓して田庭(丹波の語源)ができたという伝説です。
 また興味深いことに、大国主神の后神で、「稲」と「川」が関係すると考えれる天津神の三穂津姫命が、保津川・保津峡の名の由来といわれ、亀岡盆地は湖であったと示されることが地層でも明らかで地質学的にも証明されています。
このような伝説には、渡来系豪族である秦氏の土木事業が加わり、保津川流域には、秦氏系の神社が点在しているなど、今後もこのブログシリーズで深く探究していきたいと思います。

さて、今回は大和朝廷、つまり皇室に繋がる神々が祀れている社をご紹介したいと思います。

走田神社(はせだじんじゃ)

祭 神

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)
彦火火出見尊(ひこ ほでみのみこと)
豊玉姫命 (とよたまひめみこと)

鎮座地 亀岡市余部町走田二

ご由緒は、奈良時代の711年(和銅4年)に勧請されて創祀され、日本の平安時代に編纂された歴史書「三代実録」によれば、平安時代初期873年(貞観15年4月5日に、正六位上の神階を授けられた「和世田神」が由来といわれています。平安時代中期927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳には丹波国桑田郡の項で走田神社と記されている古社です。

 

 

 江戸時代に入ると歴代亀山藩藩主の尊崇も篤く、安町、河原町、穴川村、余部村(丹波亀山城からすると西の地域)の氏神と崇敬され、寛文六年(1666)、元禄一五年(1702)、元文二年(一1732).、明和六年(1769)、寛政七年(1795)、天保六年(1835)、安政二年(1855) に社殿の造営修復がなされたされ、このうち元禄十五年 の造営については、棟札写が残、り、亀山城主井上氏の助力を得て本殿を再興し、大工棟梁は中澤九郎右衛門忠平、同脇棟梁は相原吉左衛門行重であったことが判明しています。
明治に入り、亀山藩の中心地域が亀岡町制がしかれ、走田神社はこの地域の西部地域の氏神として崇拝されました。
ちなみに対する東部地域の氏神が鍬山神社とされ、旧亀岡町の地域で鍬山神社と二分されるほど、格式高い神社であることが伺えます。

 

 ご祭神は、古事記などに登場する「海幸·山幸」の「山幸」にあたる彦火火出見命と、その妃で海幸の釣針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘・豊玉姫命と、そして、御子の彦波激武鶴鵠草葺不合命の三神です。
「新修亀岡市史」によりますと、男神女神の二神像と童形の神像との三柱を奉斎されていると記述されており、この神像が父神・母神・御子神で祀れていたことがわかります。

※ご祭神についてですが、古事記や日本書紀を紐解いて、どのような神々であるか、少し調べています。
ちなみに、古事記や日本書紀は、日本最古の「歴史書」であり「正史」でありますが、神代の伝説は物語として読んで見ますと、その当時の人々がどのように考え、その考えからどのように生きてきたかという日本人根底の営みを知る資料として非常に面白いと思います。
このブログシリーズでは、これらの伝承や伝説をもとに古代の人々の生活の営みを掘り起こし、保津川水運の歴史価値を探究したいと考えています。

さて、話を元に戻し、走田神社のご祭神の
彦火火出見尊(ひこ ほでみのみこと)は、別称:火遠理命、山幸彦(やまさちびこ)として「古事記」に登場します。
彦火火出見尊は、天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、山の神である大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)との間に生まれた御子です。
ちなみに、義父神である大山祇命は前回のブログで紹介した薭田野神社(ひえだのじんじゃ)のご祭神です。 

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)は、「山幸彦」(彦火火出見命)が、落としてしまった兄の海幸彦の釣針を探しに行ったときに出会った龍宮に住む海の神 大綿津見(おおわたつみ)の娘で、彦火火出見命の妃となります。

彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)は、彦火火出見命と豊玉姫命の御子で、初代天皇になる神武天皇の父神です。

ここで、祭神である三柱の神ついて『古事記』から読み解いていきますと、

彦火火出見尊は、別称:火遠理命、山幸彦(やまさちびこ)とも呼ばれ、父は天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、母は山の神である大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)との間に生まれた御子です。

『古事記』ではつぎの様に伝わっています。

母・ 木花之佐久夜毘売が身篭った際、そのことを知らされた父・瓊瓊杵尊は
「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」
と、自分の子でないのではないかと疑いました。
 
その言葉を聞いた木花之佐久夜毘売は、
「わたしの孕(う)んだ子がもし国津神の子であるならば、事なく生むということなどできないでしょう。もし、わが腹に子が天津神の御子であるならば、なに事も起こりはしないでしょう」
と、そう言い置くと、すぐさま戸のない大きな殿を作り、その殿の中に入ってまわりを土で塗り塞いで、いよいよ生まれるという時になると、火をつけ、燃えさかる火の中で三柱の火照命(海幸彦)と火須勢理命と火遠理命(山幸彦)を生みました。
火遠理命(山幸彦)が、走田神社のご祭神の一柱である彦火火出見尊(ひこ ほでみのみこと)です。

彦火火出見尊は、兄・火照命(海幸彦)から借りた釣針をなくし、その釣針を探しに彦火火出見尊が、海の世界に行った時に出会ったのが、海神(わたつみ)大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘で、竜宮に住むとされる豊玉姫命 (とよたまひめみこと)と出会い、そして結婚します。

義父にあたる大綿津見神(おおわたつみのかみ)の力を借りて、兄・火照命(海幸彦)を服従させた後、妻である豊玉姫命が地上にいる彦火火出見尊もとに訪れ、懐妊したことを告げに来たところ、

天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がり浜辺に産屋を作ろうとしましたが、茅草のかわりに鵜(う)の羽を葺きましたが、その鵜の羽が葺き終えないうちに産気づいたため、産屋に入りました。
豊玉姫命は、
「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」
と彦火火出見尊に言いました。

 

彦火火出見尊は、その言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまいます。
すると、そこには豊玉姫命が八尋和邇(やひろわに)注(サメ)の姿になって這いまわりうち廻っているのを見て、恐れて逃げ出していました。

子を生み終えたは豊玉姫命は、彦火火出見尊がおのれの姿を覗き見たことを知って、とても恥ずかしいと思ってしまい、そのまま産殿に御子を生み置いて、

「わたくしは、いつまでも海の道をとおって通い来て、子を育てようと思っておりました。しかしながら、あなたさまが、わたくしの姿を覗き見てしまわれたこと、これは耐えられないぼどに恥ずかしいことでございます」

と言い残し、そのまま海道を閉じて、海神(わたつみ)の宮に帰ってしまいました。
そして、その時、生まれた御子が彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)です。

 

『日本書紀』によれば、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)が誕生した産屋は、全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふきましたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられ、これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあわせず)」と名付けたといわれいます(以後、葺不合尊と明記します)

このことにより、地上から海神(わたつみ)への道はふさがり、これ以来、「陸」と「海」とが別れた世界となり、行き来でいなくなったとされます。
豊玉姫は海神(わたつみ)の宮に帰った後も、、生んだ子を恋しく思う心を抑えることができなくての、その御子を育てる乳母として、妹の玉依姫を遣わし、ことつけに歌を送りました。

赤だまは  をさへ光れど しらたまの  君がよそひし たふとくありけり」

 それに対して彦火火出見尊は、豊玉姫に次のような歌を返します。

「おきつとり  かもどく島に わがゐねし  いもはわすれじ 世のことごとに」

これ以後、葺不合尊は、母神である豊玉姫命の妹であり叔母になる玉依姫に育てられ、なんと、この玉依姫と結婚し4人の子供を生みました。その末の御子の若御毛沼命(わかみけぬのみこと)こと神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)初代天皇・神武天皇となります。

ここで注目したいところは、上記の系図でわかりやすく示した走田神社の御祭神の系図です。
葺不合尊は神武天皇の父神であり、天皇家直系の祖先神であるということです。

また、母神の豊玉姫命は、海神の大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘で「海」を司る神であることから、海洋民族との関係があるともいわれています。

つまり、走田神社は「山」と「海」、そして神武天皇の父神であり、「延喜式」の丹波国桑田郡の項に「走田神社」と明記されている古社であることから、皇室と稲作文化とも深い関係がある社であると考えられます。

また下記の地図をご覧ください。

曽我谷川から走田神社の場所まで明らかに意図的に水路が引かれています。

この水路は、境内の東を流れ不鳴川(ならずがわ)という名で呼ばれる川で、増水の時、川音を立てないということで名付けられた灌漑用水路です。
その昔、社殿に掛けられた額の絵馬から、馬が抜け出し、近くの草地へ草を食いに走り、その踏んだ跡がだんだん溝池になり川になったといわれています。そのため、現在でもこの川の改修や溝さらえた日には、神社に馬の好物の青豆を供えて祈願する風習が続いていおり、その由来から「走田」という地名に由来されます。

 

また、社殿の向いに池があり、池の中には弁財天社があり、この弁財天社は葺不合尊の乳母であり、后となる玉依姫が祀れているとされ、境内中に「垂乳味池」と呼ばれる清水があり、母神・豊玉姫が御子・葺不合尊を出産した後、御子を波瀲(なぎさ)に残し龍宮に帰ってしまったことから、残された葺不合尊を豊玉姫尊の妹である玉依姫により養育されるようにしました。玉依姫は、この清水の水で粥を作り乳の変わりとしたとか…
これより「垂乳味池」と呼ばれるようになり 、後に、この清水は、乳の出の悪い婦人がこの清水で作った粥を食べると、乳が たくさん出るようになるとといわれています。

走田神社の東
横に流れる曽我谷川は、保津川へと流れて行きます。
保津川流域は、出雲系や秦氏の系統の神社が多い中、大和朝廷の直系の祖先神がこの地域に祀れていることが非常に興味深いと思います。

 

大和朝廷の神々は、稲作文化と関係性が深いとされます。そう考えますと、走田神社は、初代天皇・神武天皇からすると祖父位・祖母・父と系図に繋がり、それはつまり、大和朝廷の政権が丹波を治めるにあたって、この地が非常に重要な土地であるという証拠であり、民からすると五穀豊穣と子孫繁栄を祈願した神社であると推測できます。

現に、この地域の上流の亀岡市曽我部町法貴では、「金生寺(こんしょうじ)遺跡」という4世紀から5世紀前半(古墳時代前期)にかけて使われた、大規模な灌漑(かんがい)施設が発掘されており、大木(木材)を使った水利施設で 、川の流れをせき止めた貯水施設として使用されていたと考えられます。この施設は、4世紀初めに造られたもので、当時からすると大規模で最新の技術が施されています。

金生寺遺跡

このようなことからも、走田神社周辺地域では、すでに古墳時代から大和朝廷の支配があったことを証明されたことになり、また面白いことに「曽我部川」… もしかすると蘇我氏が関係することも考えれます。

そして、曽我谷川には、国の天然記念物であり絶滅危惧種の魚・アユモドキが生息しています。アユモドキは、農地、特に稲作地と密接な関係がある魚であることから、この曽我谷川流域には古代から豊かな稲作が営まれた証拠でもあります。
また、 前回ご紹介した『古事記』の編纂者・稗田阿礼との関係がると思われる薭田野神社とも近く、この走田神社は、古代大和朝廷の丹波の拠点として鎮座された社として現代までに「走田神社」の信仰が残されてきたのだと考えられます。

(さいたに屋)

 

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