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船頭だより
歴史ブログ

丹波鎮守の杜を巡る旅【薭田野神社】シリーズ⑸

 亀岡盆地に流れる出る支流の川は、最終的に全て保津川に合流し、京都を通じ大阪湾まで流れ出ます。
筆者は、人間が生きていくためには「水」は絶対に必需であり、しかも稲作文化が渡来した弥生時代以降、「水」は絶対的な資源であったはずだと考えています。しかもその水源の源は山であり、山は水だけでなく、薪炭や住居のための資材、またタンパク源など重要な供給地であったことは間違いありません。
そして、鉄器の普及も重要であった様で、丹波の地の集落は急速に増加していきた歴史が神社の形成から読み取ることができます。

その証となる社の杜(もり)をご紹介したいと思います。

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 薭田野神社(ひえだのじんじゃ)


御祭神
・保食命(うけもちのみこと)
・大山祇命(おおやまつみのみこと)
・野椎命(のづちのみこと)

鎮座地:京都府亀岡市薭田野町佐伯垣内亦1

 

 薭田野神社は、ご由緒によりますと、和銅二年(709)丹波国守大神朝臣狛麻呂により佐伯郷の産神として創建され、平安時代に編纂された『延喜式』にも登録された古社です。御祭神は保食命(うけもちのかみ)、大山祇命(おおやまつみのかみ)、野椎命(のづちのかみ)の三柱で五穀守護神。鎮守の森の中央は弥生時代以来の祭祀跡と伝わり、本殿南側には京式八角石燈籠は鎌倉時代の作で国重要美術品に指定されているなど、亀岡市の中でも非常に古い歴史を持つ神社です。

神社に伝わるいいつたえでは、縄文の終わりごろに、この地に住み着いた先祖が原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え食物の神を祀ったのが始まりだといわれています。

薭田野神社は、なんといっても毎年八月十四日に行われる「丹波佐伯郷燈籠祭」が有名です。このお祭りは、五穀豊穣と男女和合を祈願する祭です。
神社ホームページから引用しますと、


かつて「宇治の県(あがた)は男が通う  男寝て待て女が通う 丹波佐伯郷(たんばさえき)の燈籠まつり」と呼ばれた女夜這いのまつりであった

※宇治の県は、京都府宇治市・県神社の「県祭」のこと。

 



何やら、下世話ないい伝えの様にも感じますが、当時の人々にとって子孫繁栄は重大なことであり、他の地域から血を入れて、病気などに強い子孫を残すという風習があったのであろうと思います。この様な風習は決してここだけでなく。日本各地の祭に多く残っています。

 

さて、お祭りの歴史は、寛喜元年(1229)、御所から賜った「五基の神燈籠」と「台燈籠」を中心に、五穀豊穣祈願祭として斎行したという起源を持ったお祭りです。

この燈篭祭は、日本書紀の記される御祭神の保食命の信仰をもとにしたお祭りで、平成二十一年には国の「重要無形民俗文化財」に指定され、勇壮な神燈籠と神輿の追いかけっこや、太鼓掛け、燈範吊りなどの神事と共に、日本一小さい串人形で知られる人形浄瑠璃が演じられ、今も地元の方々を中心に継承され続けられています。

薭田野神社の歴史には、平安時代中期、真言宗の寺院を併設(神仏融合)した神宮寺として栄えた時代もあり、鎌倉時代以降は薭田八幡宮と称し疫病退散·健康長寿の霊験あらたかな社として信仰を集めていました。明治の神仏分離令(1868)により寺院を廃し元の「薭田野神社」となり、古来女性の守り神としても知られ、最近では悪病退散·癌封治の社としても全国的に信仰を集めています。

さて、ご祭神なのですが、保食命、大山祇命、野椎神が祀れています。ここで、三柱も神様をご紹介したいと思います。

 保食命(うけもちのみこと)は『日本書紀』に登場する女神で、天照大神から高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界(葦原中国)へ行くように命じられた月読尊が、保食神の所へ行き、保食神から食事の接待を受けます。ところが、その食事は、全て保食神の口から吐き出された食べ物ばかりで、それを見た月読尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまいます。そのことを聞いた天照大神は月読尊に対して大変激怒し、「もう月読尊とは会いたくない」と言い、それからというもの世界は昼と夜とに別れたという伝説に保食神は登場します。そして、この伝説にはまだ続きがあり、天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいて、保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれ、天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種としたとされます。

ちなみに、この伝説によく似た話は『古事記』にもあり、そこではスサノオ(須佐之男)とオオゲツヒメ(大宜津比売)の話となっています。なので、保食神とオオゲツヒメとは同一神とされることもあり、また、同じ食物神であることから伊勢の外宮の祭神豊受大神や、「お稲荷さん」で有名な宇迦之御魂神とも同一視されることもあります。

保食命を斬った月読尊は、前回の大井神社のご祭神でもあります。
近くの地域に、この二柱が祀れているというのは非常面白いと思います。
丹波鎮守の杜を巡る旅【大井神社】シリーズ⑷

 

 大山祇命(おおやまづみのみこと)は、大山津見神※古事記とも呼称され、イザナギ・イザナミとの間に生まれた男神です。神話では大山祇命は山の神様とされます。野の神である野椎神と共に、山野によりて分担して、八神(天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・大戸或子神・大戸或女神)を誕生させたといわれています。
大山祇命は山岳を司どる神かというと、山だけに限定されているわけでなく、例えば古事記には何度か顔を出します。スサノヲ(須佐之男)が八俣の大蛇退治のする話で、櫛名田比売の父の足名椎が、大山津見神の子を名乗っており、また、(ニニギ(邇々芸命)の結婚の話では、イワナガヒメ(石長比売)とコノハナノサクラビメ(木花之佐久夜毘売)の姉妹の父として登場し、邇々芸命の求婚に応じて姉妹を送ったとされる話が出てきます。
 山の神に対する民俗的な信仰は全国各地に多く見られますが、その信仰の様態は様々で、大山祇命は、かなり自然発生的な信仰の側面を持った自然神と考えられるています。そうしたことから、山の神という信仰だけでなく、農耕の神、出産の神、海の神といった側面があると民俗学では論じられています。

 

 野椎命(のづちのみこと)野の神、カヤノヒメ(鹿屋野比売神)※日本書紀のまたの呼称され、イザナギ・イザナミとの間に生まれた女神で、野椎命の「野」つまり「草」を司る神様とされます。「野」の意味を調べてみましと、白川静『新訂 字訓』(普及版)によりますと、広々としていて、人の住まない土地、農耕などの及んでいないところ、野原」を意味とされ、また里の外縁に広がり山にまでは至らない地域のことを指すとする説もあります。
つまり、人間が農耕を始めるにあたって、土地を開拓する前提の神様としての信仰があったと思われます。
「山」は、古代人にとって多様な営みの場であり、同時に信仰の対象としての聖なる空間でもあったありました。その中で狩猟、焼畑耕作、鉱物資源の「源」であり、それが川の流れとともに「野」に通じてきます。このような「山」と「野」の関係が、大山祇命と野椎命の信仰に繋がったと考えられます。

さて、この薭田野神社を地図で見てみると山内川と菰川が合流しています。
地図から見て、合流している川の横に神社があり、これは自然の川を整備して田畑を開拓した痕跡が伺えます。
山を司どる神様・大山祇命が、山々を水源や薪炭などのエネルギーを供給し、そして灌漑用水を引き、水の恩恵を受けて、稲作を中心とした農耕を発展させ、人々の暮らしは豊かになり、そこから神事ごとなどから文化を発展させてきたということが、この地形から読み取れます。

さて、境内地には稗田阿禮神社という摂社が祀れています。稗田阿禮は『古事記』の編纂者の1人として知られ、『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人(とねり)※皇族や貴族の警備や雑用をする者として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習(しゅうしゅう)※書物などを口に出して繰り返し読むことを命ぜられたと記されています。阿禮が太古から伝わる伝説を語り、太安万侶がそれを記録し『古事記』を編纂したと古事記序文に記されています。
この地域のいい伝えでは、稗田阿禮は、「丹波国佐伯郷原野で生まれ育った」という伝説があり、神社の氏子の方々が文学・学問・芸能の守神として境内地にお社を造営しました。
ちなみに、編纂者の太安万侶は、記録上では、神社創建に携わった丹波国守
大神朝臣狛麻呂と同世代であり、同じ位についていた時もあった様で、稗田阿禮が薭田野の地に育ったという伝説は、あながち嘘でもないかもしれません。

 

筆者は、農耕との深い関わりを持つ、この鎮守の杜は、保津川水運の発展に大いに関係があると考えています。
この地域の発展がなければ、当然、後に都になる「京都」が生まれることは考えにくく、ご祭神で三柱や、朝廷から賜ったとされる神燈籠、そして古事記の編纂者たち…

その歴史を今に残している証が、この丹波鎮守の杜である薭田野神社にあると考えています。
ひえ田野神社

 

(さいたに屋)

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