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船頭だより
亀岡散策

丹波鎮守の杜を巡る旅【篠村八幡宮】シリーズ⑶

 丹波は深い山々が続く土地で、ここを発する河川の由良川は日本海へ、桂川(保津川)は大阪湾へと流れ、日本海側圏と太平洋側圏の文化の中間地点に位置します。そんな中で古来、丹波の地は山や川を境として、さまざまな勢力争いが繰りひろげられ、京都に隣接し山陰道・中国地域を結ぶ要衝として重要視されてきました。
 今日は、そのことを物語る鎮守の社をご紹介したいと思います。

 


篠村八幡宮 (しのむらはちまんぐう)


祭神・誉田別尊(ほむたわけのみこと)※応神天皇(おうじんてんおう)
  ・仲哀天皇(ちゅうあいてのう) 
  ・神功皇后(じんぐうこうごう)
鎮座地:亀岡市篠町篠八幡裏四番地

 篠村八幡宮は、亀岡市の東部にある神社で、京都と丹波の境の位置し、大古道である山陰道に通じている交通の要衝地に社は鎮座されています。

 社伝によれば延久3年(1071年)に勅宣によって源頼義(988-1075)が誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請し創建したとされ、延久4年(1072年)の頼義の花押が入っている寄進状も現存する古社です。

寄進者の源頼義は、平安時代中期の武士で清和源氏を源流とする河内源氏の棟梁です。八幡太郎義家の父としても有名ですが、
後に鎌倉幕府を開いた源頼朝からすると5代前の人物と考えれわかりやすいかもしれせん。
大変武勇に優れ、平安時代後期に起きた、安倍頼時、貞任父子の反乱「前九年の役」の際、鎮守府将軍として従軍し、これを鎮定したこと戦功を上げます。時の帝・後三条天皇から現在の大阪府南部、河内の国守に任じられ、その恩賞として篠村一帯の荘園(貴族や社寺の私有地)を給わったとされます。

 祭神である八幡神は、誉田別尊である応神天皇と同一とされいますが、平安時代の頃から神仏習合がなされ『八幡大菩薩』という称号となり、鎮護国家(仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想)・仏教守護の神としてその信仰が世に広まっていました。清和源氏が八幡神を氏神として崇拝されるようになったのは、おそらく 頼義の父である源頼信(968-1048)の代からとだと思われます。

 さて、篠村八幡宮を歴史の表舞台に押出したのは、後の世の足利尊氏(高氏)です。
尊氏が鎌倉幕府の北条方から後醍醐天皇側に組みし、鎌倉幕府打倒の挙兵をした地で、現在でも『足利尊氏旗揚げの地』として知られ、旗揚げの願文(京都府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊といった史跡が残されています。

尊氏が元弘3年(1333年)429日に篠村八幡宮で源氏再興の祈願文を以下のように奉じています。

「八幡大菩薩は源氏代々の守り神である。その子孫である自分も弓矢の道、すなわち武将として誰にも劣るものではない。源氏の大将は代々、朝廷に刃向う悪党を討ち滅ぼし、敵を倒してきた。元弘の名君である後醍醐天皇が、神をうやまい法を立て直し、万民のしあわせを願うために、北条氏の鎌倉幕府を討つことを御命令された。自分はお味方をして義兵をあげるしだいである。丹波篠村の宿の近くの小桐の楊の大木の枝に源氏の白旗を立てた。村民にたずねたところ八幡大菩薩をおりしているとのことだ。これはありがたい。今度の幕府打倒の計画は必ず勝ちいくさを収めるだろう。願いが叶って我が家が再び栄えたら、必ず神社を立派に立て直し田地を寄進する。どうか私の願いを叶えて下さい。」という祈願文です。
(※昭和59年、摂南大学教授上島有氏によって、尊氏の自筆であると実証されました。【古郷鎮守の森 亀岡神社誌】)

この祈願文で、わかることは、
●八幡神が神仏習合の「八幡大菩薩」であること。
●源氏の氏神であり、武運の神(武神)としての信仰が見られる。
●朝廷を敬い、鎮護国家を願っていること。

尊氏の時代には八幡神に対しての信仰が明確に確立していたことが伺えます。

篠村八幡宮には、現在も足利尊氏旗上げの地境内を出た北側には、小桐の楊の大木の枝に源氏の白旗を立てたという『旗立楊』(はたたてやなぎ)があり(尊氏の時代より、6・7代を経ている楊の木)、ここで味方を呼び掛け、諸侯を集めるための目印として、揚(やなぎ)の木に足利の家紋「二つ引両」と源氏の「白旗」を掲げたといわれます。
また、境内には 『矢塚』と呼ばれる史跡もあり、この塚は、出陣の際に各武将が1本ずつの矢を奉納したとされ、集まったたくさんの矢をこの地に埋めたとされます。

 鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政がはじまり、当初は後醍醐天皇と足利尊氏(高氏)との関係は良好でした。自らの諱「尊治」から一字を取って「尊氏」の名を与えるほどでしたが、結局は関係が決裂し、建武3年(1336年)1月30日、尊氏は京都攻防戦で後醍醐天皇側と争うこととなります。尊氏は、この争いで一旦は京都を占拠したものの北畠顕家軍との京都攻防戦に敗れ、同年2月1日、篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集結して、社領を寄進して再起祈願を行なっています。そして尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと京都に戻り室町幕府を開くことになります。
尊氏にとって、篠村八幡宮は2度の岐路の決断し、大願が成就したことから、尊氏自身にとって相当重要視した場所であったことは間違いなく、その後、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進されました。

ちなみに、足利尊氏が篠村八幡宮に戦勝祈願のため寄進したと伝わる白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)および黒韋腰白威筋兜がアメリカのメトロポリタン美術館に所蔵されています。

 

 八幡神に対する信仰は、日本の歴史上で最も普及した信仰の一つといえます。しかし、なぜ八幡神と応神天皇の霊が同一視されるのかについては、さまざまな説が出されてはいますが「これ」といった定説はないかと思います。
今後その謎ついて探究していきたいと思いますので、「八幡神の謎」の核心については今回のブログでは控えます。
ただ、八幡信仰と源氏との関わりから篠村八幡宮を通して調べていくこと、「その謎」に少し触れられるように思います。
 

 筆者は、足利尊氏が人生の岐路となる2回の決断というべき時に、この篠村八幡宮に集結場としたことに注目しています。
1回目である六波羅探題を攻めた際、尊氏の兵団は3,000ほどの軍勢でした。
それが、篠村八幡宮に集結した時、23,000の軍勢に増え、最終的に六波羅探題を攻撃した時には50,000を超えるの軍勢に膨れ上がったとされます。(太平記によれば)
これは源氏武士たちの心底には、正当な源氏の血筋を受ける尊氏を大将として、篠村八幡宮という場所は最適な地であり、源氏の武士団たちが集結しやすい根底があったと考えられます。

最初は尊氏は、鎌倉幕府から後醍醐天皇側を討伐する命を受けた人物でした。当初、久我畷(京都市伏見)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城信光らの宮方の軍勢と激突しますが、共に出陣していた名越高家が戦死したため、一旦、丹波の国篠村まで軍を進行、というより撤退であろうと思われます。
これには、篠村が足利家の所領であったということが撤退地に選ばれたいちばんの要因だと思われますが、尊氏の母の実家上杉氏の本貫地が丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(綾部市)と近かったこと、そして何より、丹波が山々に囲まれ隠れやすく、また攻めやすいという立地条件が、尊氏の軍を進めさせた要因だと考えています。

そして、尊氏は、丹波の地で西国にむけて八幡大菩薩(八幡神)という御旗を掲げることで、全国各地の源氏武士団を奮い立たせることができる絶好の地の利を得たといえ、篠村八幡宮での決起は、源氏にとっての精神的な支えと、更なる結束を生み、士気を高められる絶対的な場所だったのでしょう。

そんな中で、尊氏が進軍する際、旗の上を山鳩のつがいが飛び交い、勝利を確信したという言い伝えも残っています。

前回、鍬山神社で「鳩」について書きましたが、「鳩」が八幡神の使いとされるのには、やはり「秦氏」が関係するのか…と妄想してしまいす。
しかし、さすが、この時代にまで秦氏が表舞台に出るとは考えにくく、もしかすると、この南北朝の争いに裏に秦氏の子孫が土地の有力者や、「土倉」など、戦に必要な兵糧や物資・資金面を工面していた者たちではなかったか?

筆者は、「その者たち」が源氏の棟梁である足利尊氏を選んだと考えてしまいます。(かなりの憶測…汗)

 さて、少し話は変わりますが、篠村八幡宮の本殿の直ぐ横には、乾疫神社(いぬいやくじんじゃ)という社があります。
乾疫神社は、篠村八幡宮より古くここに鎮座されており、奈良時代以来の御霊信仰に基づき、「乾(= 北西)」の方角の丹波国・山城国の国境に勅願で創建された疫神社とされます。

 

祭神は、建速須佐之男神、大己貴神、少彦名神であり、出雲神話を代表する神々が祀られています。
乾疫神社は、平安遷都以来、山陰道から都に悪疫や災難が入るのを防ぐために山城・丹波の国境でも勅願の祭典が度々執行され、正暦5年(994)頃に神社を設けて常にお祭りをする神社となります。
実際、上の写真でわかるように、篠村八幡宮と乾疫神社は西北の方を拝する方向に鎮座されています。
乾疫神社は、最古の疫神社とされ、延喜式によれば、平安京の4隅と、山城と他国との主要6街道の国境に計10社ありましたが、現在、今宮神社、石清水八幡宮と当社に現存しています。
平成12年の大改修に際して御神靈を仮遷座した処、樟日命(しょうびのみこと:神々の系譜不詳)と伊勢系の伊邪那岐命の神籬(ひもろぎ)が併せ祀られていることが判明しました。(神社の統廃合か、もしくは出雲神封じのためか…)


※石清水八幡宮の疫尽堂は、『都名所図会』(江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌)には、「一鳥居の南、廊下の内にあり。このところ、八幡宮御旅所なり。疫神は正月十九日一日の勧請なり。『延喜式』に日く、「山城と摂津の堺に疫神を祭る」とあり。世人正月十五日より十九日まで、当山へ群参してその年の疫難を払ふなり。土産には蘇民将来の札・目釘竹・破魔弓・毛鎚等を求めて家に収め、邪鬼を退くるなり。」

一般的は、「鬼門」の北東の方角は有名ですが、古来、北西は乾(いぬい)と呼ばれ、陰陽道では「天門」と呼ばれ「鬼門」ど同様大変重要視されました。陰陽道では天門は怨霊や魑魅魍魎のやってくる不吉な方角とされます。実際、酒呑童子や愛宕山天狗などは、平安京からすれば乾のの方角から現れ、当時の人々は恐れていたと思われます。(※おとぎ話ですが、当時の人々は信じていた)

(※石清水八幡宮は、貞観2年(860)、僧行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡宮から神託を受け、清和天皇が山城国の石清水寺(現・摂社石清水社)の男山に石清水八幡宮を創建した社です。この清和天皇が石清水八幡宮を創建したことが、清和天皇の子孫とされる代々の源氏の武士たちが氏神とした要因だと思われます。)

清和天皇は、そのことを理解し、京都の裏鬼門に石清水八幡宮を創建し、その同時期に篠村に乾疫社が祀られてとされます。
その延長線には何かあるかといえば、丹波の出雲大神宮が鎮座します。

平安時代に武士が生まれますが、そもそも武士は天皇や貴族を守るボディガードとして始まります。
その仕事内容は、直接的に命を守るということもありましたが、疫病や災いなどを退けるために土地を守る集団として波及していきました。
それは王城である御所を守ることとなり、その背景から都より西の方角の土地に源氏の所領が多く点在していったのです。

その背景こそが、足利尊氏が2度も決起させた場所が篠村八幡宮となった根底の要因と考えます。

(さいたに屋)

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丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑴   【出雲大神宮】

丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑵   【鍬山神社】

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