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船頭だより
歴史ブログ

丹波鎮守の杜を巡る旅【大井神社】シリーズ⑷

全国の神社の中には、社号標に『延喜式式内社』式内社』と表記されている神社があります。
この表記は『延喜式』に編纂された全国の神社のことで、「延喜式」とは、平安時代中期に編纂された当時の法律、法令をまとめたものです。その中の9・10巻に全国に祀られている神社名を記録した『延喜式神名帳』があり、この中に記載されている神社は延喜式式内社』や『式内社』と敬称される神社で、当時の朝廷公認を得られた神社であると同時に、1000年以上の歴史がる古社ということになります。
ちなみに「延喜式」は、西暦905年(延期5)醍醐天皇
の命により藤原時平が編纂を始め、時平の死後は弟の藤原忠平が編纂を引継ぎ、927年(延長5)に完成させてのですが、この変遷者の一人である藤原時平[871-909]は、菅原道真(すがわらのみちざね)を政争争いで太宰府まで流し左遷させた人物です。

 さて、京都大学名誉教授・上田正昭氏は、『故郷鎮守の森・亀岡神社誌』の中で次のように「延喜式」に記述されている社と、その祭神となる神々ついて語っておられます。
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  醍醐天皇
の勅命によって延喜五年(905)から編纂に着手され、延長五年(九二七)に完成をみた。三代式のひとつが「延喜式」である。「延喜式」は五十巻で、その巻九と巻十が神名式(神名帳) であった。そこに記載されている神社が、いわゆる式内社である。十世紀の前半におけるいわば政府公認の古社がそれであった。全国祭神の総数は三千百三十二座であり、社の総数は二千八百六十一を数える。丹波の国の場合はどうであったか。丹波の国では七十一座の神々が祭配されており、桑田郡の十九座を筆頭に、氷上郡の十七座、何鹿郡の十二座、船井郡の十座、多紀郡の九座、天田郡の四座となる。桑田郡は北桑田郡·南桑田郡に分れたが、延喜式所載の桑田郡における古社のほとんどは亀用市内の鎮座社であり、しかも式内社数は丹波の国のなかで断然桑田郡が多い。いかに亀岡市域の神々が丹波の国で重きをなしたかが察知されよう。そしてその古社の祭神には、地域の守護神ばかりでなく、大和系、出雲系、秦氏系、賀茂系などが交錯する。要衝の地、口丹波の歴史と風土が古社の祭神にも投影されるのである。(故郷鎮守の森・亀岡神社誌より)
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上田氏は、丹波の国に置いて特に亀岡に多くの古社が集中し、その祭神の神々は大和系、出雲系、秦氏系、賀茂系などの系列の守護神が交錯し祀られていることに注目されています。
それは丹波・亀岡が、それぞれの系統を組む神々の信仰が交差し交わり、古から現代の私たちにいたるまで歴史・文化に投影され、地域間の
連帯を育むエネルギーの集約の場として古社が守り続けてこられたことを上田氏は述べれています。

今回は、そのエネルギーの集約の場、中心地でありったと思われる社をご紹介したいと思います。そして、そこには古から伝る「しきたり」があり、今でも地域の人々は「それ」を守り、継承し続け大事に受け継ぐ鎮守の社です。

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 大井神社 (おおいじんじゃ)


祭神
・月読命(つきよみのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・木俣命(きのまたのみこと) – 別名を御井神(みいのかみ)

鎮座地:亀岡市大井町並河宮ノ後53番地

 大井神社は、和銅3年(710)、元明天皇の勅命によって創建され、平安時代中期の『延喜式神名帳』には「丹波国桑田郡 大井神社」と記載され、式内社に列なる古社です。
天正4
年(1576年)、明智光秀の丹波平定に際し兵火により焼失しますが、同12年(1584年)豊臣秀吉の命を受けた片桐且元が再建し、その際に「正一位大井大明神」の扁額を自署して奉納したと伝わります。
亀岡盆地のほぼ真ん中に鎮座されており、その地に鎮座するにあたって興味深い伝承が伝わっています。

ご祭神は木俣命(きのまたのみこと) – 別名御井神(みいのかみ)という神様が祀れており、

ご祭神について、大井神社のホームページに非常に面白い伝説が掲載されていますので引用させていただきます。

 

「往古、亀岡の盆地は泥湖であったが、大変革の時に湖の中心点が乾き残り(現 当社神池)、
旱魃でも涸れない「大いなる井戸」として、永く存したことに由来する。
その大井の水に万一のことがあれば、平野一帯は瞬時にして前の如く湖水になるのを憂いて、
木股命(御井神)を大井神社に勧請して篤き守護を祈った。」
(大井神社ホームページより

大井神社の名称は、「御井神」の名から発祥しているといわれ、「大いなる井戸」という恵の社として自然崇拝の信仰が続いていることが名称から伺えます。
この伝説に出てくる木股(俣)命(きまたのかみ、きのまたのかみ、このまたのかみ)は、古事記の中で、大穴牟遅神(大国主)と因幡の八上比売命との間に生まれた御子。八上比売は大穴牟遅神の最初の妻でありましたが、須勢理毘売命を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまい、そのため、その子を名づけて木俣神となったといわれます。また、別名を御井神(みいのかみ)といい、『古事記』では性別不詳ですが、祭神としている各神社の社伝では、大穴牟遅神の長男としている例が多く、一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されています。
大井神社の名称については、出雲系である大国主が関わっているのが興味深いところで、水神として崇められるのは、丹波が湖だったという伝説が影響していると思われます。

そして、月読命市杵島姫命についても、
「鯉伝説」という伝説がり、こちらも大井神社のホームページから引用させていただきます。

「大宝2年(702年)に、御祭神が京都嵐山の松尾大社から大堰川(保津川)を亀の背に乗り
遡って来られたが、八畳岩の辺りから水勢が強くなって進めなくなり、そこへ現れた鯉に
乗り換えて勝林島の在元渕(河原林町)まで来られ、後に大井へ遷られた。
最初に在元渕に建てられた社を在元社と呼び、この社を建てた大工が住んでいた里は、
今でも「宮前町神前(みやざきちょうこうざき)」という地名としてのこされている。
大井神社氏子地内では、この鯉の大功を崇め敬い大切にし、鯉を食べないばかりか
触れることもせず、本物の鯉だけでなく絵や人形でさえも触れようとしなかった。
後の世に「鯉のぼり」の風習が全国的に広まっても、やはり例外ではなく、現在でも
五月の節句に鯉のぼりをあげない風習が残り継がれている。
また古老の中には、鯉のことを呼び捨てにせず「お鯉さん」と呼ぶ者もいる。」
(大井神社ホームページより)


この伝説には、大井神社と京都の松尾大社とが深い関係性で繋がっているという伝説に読み取れ、上記の御祭神は市杵島姫命と考えるのが妥当だと思われます。なぜなら、松尾大社の祭神が、市杵島姫命であり、その使い神は「亀」と伝わるからです。つまり、松尾地域(葛野周辺)の民が保津川を遡ってきて丹波に住み着いたのではないか?という仮説がなり成り立つわけです。

大井神社を語る上で、どうしても松尾大社を切り離すことができないでの、松尾大社のご由緒を調べて見ると、

「京都最古の神社の一つで、もともとこの地に住んでいる人々(縄文人)が松尾山の神霊を生活の守護神として祀ったことが起源とされ、大宝元年(701)に秦氏一族が神霊を勧請し、現在の地に社殿を造営した。祭神は大山咋命(おおやまぐいのみこと)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。平安時代には上賀茂神社・下鴨両神社とともに皇城鎮護の社とされ、現在も洛西の総氏神として、また、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造祖神として格別な崇敬を集める。」
『松尾大社神秘と伝承』より
※つまり、松尾大社は、渡来系の豪族である秦氏が造営した社で、松尾地域の民は秦氏の一族と考えられます。

【松尾大社】

松尾大社の境内には「亀の井」といわれる湧き水があり、この水を酒を醸造する際、元水とすると酒が腐らず良い酒ができるといわれています。

亀の井】

そして、大山咋命と市杵島姫命の両神を祀る神社は、亀岡でも多数点在し、特に保津川峡谷の入り口に鎮座される請田神社と桑田神社の両社は、松尾大社と同じ大山咋命と市杵島姫命を祭神としています。
しかも、この請田神社と桑田神社にも以前ブログに書いた「丹波湖蹴裂(けさく)伝説」に協力した神様でもあります。
※請田神社・桑田神社は後日のブログでご紹介したいと思います。
丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑴   【出雲大神宮】

丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑵   【鍬山神社】

※「丹波湖蹴裂(けさく)伝説」ついては上記をご参照ください。

 

 さて、話は大井神社の鯉伝説に戻り、亀の背に乗った松尾の神(市杵島姫命)は、最後の保津峡の急流である八畳岩の辺りで、水勢が強くなり進めなり、そこへ、鯉が助けて、無事に上流の勝林島の在元渕という場所に着き、後に大井の地に遷られたということですが、急流の八畳岩というのは、下記の写真のあたりと代々の船頭たちには伝わっています。

江戸時代の頃には、下記の絵図は『盥魚庭落葉』(たらいのうおにわおちば)という著作で、亀山藩士・矢部朴斎という人物が保津峡の工事の様子を絵にしたもです。請田神社から3丁(327m)ほど下流の場所で、上記の画像の場所あたりと推測することができ、昔は岩がゴツゴツとむき出していたようで、今よりもきつい急流ポイントであったようです。

大井神社の氏子周辺の地域では、保津川を遡ったという「鯉伝説」の伝承から、鯉が大井神社の神の使いとされ、鯉を釣ることも鯉を食べることも禁忌(タブー)とされ、端午の節句には鯉のぼりも揚げることもないとされています。
筆者は、最後に助けた鯉は月読命と考えていますが、この月読命は「古事記」や「日本書紀」では、天照大神や素戔嗚に比べると、それほど多く登場しません。そういう意味では、謎の神といっても良いのではないかと思われます。

月読命(つきよみみこと)は、日本神話では、黄泉の国を脱出した伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)をした際、右の目を洗って化生した三貴子の一柱であり、天照大神からするとで、素戔嗚尊(すさのおのみこと)からすると兄になります。月を司どり、父神である伊奘諾尊から夜の世界の統治を命じられました。「つくよみのみこと」と敬称されるところもありますが、この大井神社では「つきよみのみこと」と敬称されます。別名を月弓尊とも敬称されます。
「月」を「読む』という意味が神名の中に込めれているので、極めて農耕と密接した神様といえます。

しかし、筆者は月読命が秦氏と関係が深い神だと思っています。
現に、秦氏の氏神である松尾大社の摂社には月読命を祀る月読神社が鎮座します。
『古事記』月読命、『日本書紀』は月読尊と表記する。

筆者は、月読命の別名・「月弓尊」という神名に注目し、
秦氏の始祖である「弓月君」に繋がるのではないかと考えています。
弓月君(ゆづきのきみ)は、秦(はた)氏の祖とされ、「日本書紀」では応神天皇のときに朝鮮半島の百済(くだら)から120県の民をひきいて渡来したといわれています。「新撰姓氏録」には、秦の始皇帝の末裔とされる弓月君が応神天皇14年に127県の民をつれて渡来したされ、山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波多姓を賜り、その後の子孫は氏姓、そして、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されています。
それが、「太秦」の地の由来です。
また、桂川の「桂」はの名称の由来ですが、諸説ありますが、月読命と桂は関係するようです。
「月読尊が天照大神の命で、豊葦原の中津国に下り、保食神のもとへ赴いた時、湯津桂に寄って立った。(桂の木に依りついて)そこか全 から桂里という地名がおこった。」(『山城国風土記』逸文·桂里)とあり、月読命が地上に降り、桂の木に寄り付いたことが桂の地名になったというのです。
少し話は飛ぶ様ですが、月と桂は、ギリシャ神話の神・アポローンが月桂樹を編んで「月桂冠」を冠にした逸話や、アポローンが銀の弓を持つ光明の神という伝説があるので、「月弓尊」とう神名は非常に面白いと思います。


亀岡の大井神社の「鯉伝説」は、京都の松尾大社と月読神社との深い関係性で結ばれているということであり、松尾の地域の民たち(秦氏一族・もしくは技能集団)が保津川を遡り、丹波地域に移住したのではないかということが、この伝説から読み取れます。

最後に、亀岡の大井神社には、大山咋命(松尾大社の男祭神)が本殿ではなく、別の場所で祀られています。
※松尾大社では大山咋命が男神で、市杵島姫命が女神で夫婦の祭神とされます。
筆者は、鯉の伝説では市杵島姫命が保津川を遡り、丹波の地に移住したことは、月読命を取り入れた「稲作文化」が到来したことであると推測します。

        ↓大井神社境内にある大山咋命を祀る社。

         

松尾大社では大山咋命は山神で磐座信仰の土着の神であり、この大井神社では木俣神(御井神)が、この大井神社地域の土着の神で、ここでも縄文時代の古代信仰と、弥生時代の大陸渡来信仰が融合した聖域の場ともいえいます。
そして、その民たちが、信仰の場として氾濫が多い大堰川(保津川)が絶対に水に浸かない境目を標す様に大井神社を鎮座させたとのではないでしょうか…
当時の人にとにとって「川」は氾濫を起こし、全てを奪う畏怖的なものでした。しかし、それと同等に命の源である水を供給するしてくれます。また、その源流となる「山」も神聖な地として崇拝され、丹波の地でも特に亀岡に式内社と呼ばれる鎮守の古社が多く点在するのです。

それは、「なぜ、保津川下りが日本で一番古い水運になったのか?」という謎に迫れる、非常に重要な要点になると筆者は考えています。

大井神社公式サイト

 

 

(さいたに屋)

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