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船頭だより
歴史ブログ

丹波鎮守の杜を巡る旅【村山神社】シリーズ⑺

 この保津川下りのブログで「丹波鎮守の杜を巡る旅」というシリーズでは、
保津川下りは、なぜ日本最古の水運になったのか?
を探るべく、主に亀岡の古い神社に訪れ、そこに祀られる祭神と、その地域の特性や立地条件などを調べています。
そして、古い神社の中でも「式内社」(
延喜式神名帳)に記載されている神社は、ほぼ保津川とその支流付近に点在しており、保津川水運の重要性は、この「式内社」や「古社」にヒントがあると筆者は考えています。
そん理由は、古代の豪族や氏族は、一族が崇敬していた氏神があり、その氏神の系譜は、必ずしも天照大神の系統の神々だけとは限りません。

丹波国にあたる亀岡の地の特性について「新修亀岡市史」で以下の通り述べられています。

 『日本列島のほぼ中枢部に位置する亀岡は、山城国と丹波国との国境にあって、東の方、旧山陰道の老ノ坂には国境の碑が立つ。東北の地域は近江国と隣接して、若狭国へとつながる。西と南は摂津国につらなる地域であった。まさしく文字とおりの接点の要域であった。
 丹波国が丹波と丹後に分割される以前にあっては、丹波国は日本海にのぞむ臨海の国であった。さらにまた保津川は淀川にそそいで大阪湾と連結する。このように丹波亀岡の地は、日本海文化圏と瀬戸内海文化圏との接点でもあった。
 延喜五年(九○五) から編さんがはじまって、延長五年(九二七)に完成した「延喜式」(五〇巻) の巻第九および巻第十に記載されている社がいわゆる式内社だが、丹波国桑田郡の式内社一九座(大二座·小一七座) の祭神が、⑴倭(大和)朝廷系、⑵出雲系、⑶松尾系(秦氏系)、⑷賀茂系(上賀茂·下鴨系) などと入りまじって祭祀されているのも偶然ではない。』
(「新修亀岡市史」本文編第1巻4p)

                     旧山陰道の国境の石碑「従是東山城國」

 京都の古代史において渡来系豪族「秦氏」の痕跡が沢山あり、特に保津川(桂川)流域にも秦氏系の神社が点在しています。筆者は「秦氏」が一族の集団ではなく、技能集団であったと考えています。
 この辺りは追々このシリーズで謎に迫っていきたいと思いますが、、今回ご紹介する鎮守の杜は、秦氏と関係するかどうかは分かりませんが、源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称される「橘氏」に関係するであろう村山神社をご紹介したいと思います。

 

村山神社(むらやまじんじゃ)

 

鎮座地 亀岡市篠町森山先三四番地

祭 神

大山祇命(おおやまづみのみこと)、木花咲耶比命(このはなさくやびめ)

応神天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)

例 祭 十月二十五日

       ※村山神社は、南に明神ヶ岳(523.5m)を神山とし、山城・丹波間の境の一番近い式内社となる。

 ご由緒は社伝によると本殿、八幡宮とも創建年代は不詳とありますが、延長5年(927)に成立された『延喜式』神名帳に丹波国桑田郡「村山神社」と明記された、れっきとした式内社です。

もともとは、神社の南にある明神ヶ岳に鎮座されていたものを現在地に移され、その後、中世の兵乱で焼失し、応永27年(1420)に国恩寺(現在廃寺·篠町)の荘園・所領としてこの地を治めた渡辺六郎頼方が社殿を再興し、その頃に八幡宮を勧請して併祀したと伝わります。
※国温寺は、延暦17年(798)、坂上田村麻呂によって創建されました。

 

ご祭神は、大山祇命(おおやまづみのみこと)と木花咲耶比命(このはなさくやびめ)の二柱と、八幡神である応神天皇と、応神天皇の御子にあたる仁徳天皇が八幡宮として祀られています。

 大山祇命(おおやまづみのみこと)は、大山津見神※古事記とも称され、「古事記」ではイザナギ・イザナミとの間に生まれました。というより、イザナミが最後に産んだ際にイザナミを焼き殺した火の神(カグツチ)をイザナギが十拳の剣で斬り殺した際に生まれまた神様です。
その後、草や野のかみである野椎命(のづちのみこと)との間に天之狭土神・国之狭土神などの四対八柱の神を生んでいます。

この大山祇命は、亀岡では、同じく式内社の薭田野神社のご祭神でもあります。

大山祇命に(大山津見神)ついて 「 國學院大学 古事記学センター」のサイトから引用させていただきます。

「山の神に対する民俗的な信仰は、全国各地に普遍的に認められるが、その信仰の様態は様々で、生活形態や地域により、そこから見出される性格も甚だ多岐にわたっている。大山津見神は、それに対して、より普遍的・総合的な性格を持った山の神と考えられることから、そうした特定の民俗的な信仰からは隔絶した神格であるとする見解がある。一方で、民俗的な山の神に共通する性格があることも指摘されていて、山の神が持つことのある、農耕の神、出産の神、海の神といった側面が、大山津見神にも見出し得ることが論じられている。」

この大山祇命の民俗信仰は、単に「山の神」という概念だけでなく、自然発生的に「大地そののもの」に対する崇敬が広く波及していったと思われ、この丹波では山からのエネルギーを源とする「農耕の神」としての信仰が村山神社には残っていると考えれます。
ちなみに、以前ご紹介した薭田野神社のご祭神でもあります。

丹波鎮守の杜を巡る旅【薭田野神社】シリーズ⑸

そして、この大山祇命は、「三島大明神」として瀬戸内海域に信仰が広がっており、渡航海の神として有名な村上水軍の守護神にもなっています。

 

 次に木花咲耶比命(このはなさくやびめ)は、大山祇命(おおやまづみのみこと)の娘神で、村山神社では親子で祀られているということなります。また、前回のブログでご紹介した走田神社のご祭神・彦火火出見尊(神武天皇の祖父神)の母神でもあります。

丹波鎮守の杜を巡る旅【走田神社】シリーズ⑹

木花咲耶比命は「古事記」ではでは、高天原か降りてきた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に求婚され、それに対して父神である大山祇命(おおやまづみのみこと)木花咲耶比命だけでなく姉である石長比売(いわながひめ)も差し出します。
その石長比売の姿は大変醜く、瓊瓊杵尊は石長比売を親元に送り返しました。このことに怒った大山祇命は瓊瓊杵尊に詛(のろ)いの言葉を送り、それ以来、天津神の子孫は寿命ができたと伝えられています。

この伝説は、木花咲耶比命(このはなさくやびめ)が、木の花の女神で、特に桜の開花を象徴し、「繁栄」を司る女神とされますが、花の如く短命を意味します。一方、石長比売(いわながひめ)は、姿は醜いけれど、岩のごとく「永遠」で持続する女神とされます。つまり、大山祇命は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)対してに「永遠」の「繁栄」を与えるべく姉妹を差し出したのでした。

木花咲耶比命(このはなさくやびめ)は、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれる彦火火出見尊(ひこ ほでみのみこと)を生み、その系統は、神武天皇へと繋がります。

 さて、村山神社はに、本宮(大山祇命・木花咲耶比命)の横に、応神天皇(おうじんてんのう)・仁徳天皇(にんとくてんのう)が祀れている八幡宮が祀れています。

八幡宮は、第十五代天皇・応神天皇が八幡神として神格化されたご祭神で、亀岡では、足利尊氏(高氏)旗揚げの地である篠村八幡宮が有名です。
この八幡宮に仁徳天皇が祀れていることは非常興味深く、この八幡宮の横に「天皇社」として仲哀天皇も面白いです。
八幡宮については、以前、篠村八幡宮について書いたブログがあるので、ぜひ、ご拝読ください。

丹波鎮守の杜を巡る旅【篠村八幡宮】シリーズ⑶

 

 

一般的に八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰が波及した神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。神名を誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされ、早くから神仏習合となり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され祀れているところも多いです。

(仁徳天皇の系図・Wikipediaより)

村山神社では、本宮と八幡宮が並列して並んで祀られていて、これは同じ亀岡市内にあるの鍬山神社と同じ配置となります。

「応永27年(1420)に、この辺り一帯を当地を治めた渡辺六郎頼方が社殿を再興し、その頃に八幡宮を勧請して並立した」と伝わりますが、この渡辺六郎頼方という人物が、筑紫の国から移り来て、天拝山安楽寺(太宰府天満宮)から天満宮を勧請し拝天社という社を村山神社の母祭神としたという伝承は、この地域の歴史を調べる上で非常に大きなヒントと思われます。

応永年間とは室町時代で、この渡辺六郎頼方なる人物は、筑紫の国出身ということから、おそらく瀬戸内海から北九州を勢力下においた水軍・渡辺党の末裔ではないかと推測できます。
ちなみに、渡辺党の祖先は、酒呑童子退治で活躍した渡辺綱であり、その綱の子孫と伝わる家は、現在も亀岡市にいらっします。
また、渡辺党といえば、源頼朝に平家打倒を促した文覚上人(1139〜1203年)も渡辺党の武士団・遠藤氏の出身で、現在の亀岡市保津にある文覚寺は、この文覚が幼少の時に育てられたという寺として現存しています。

これは、瀬戸内海に通じる水軍武士団が丹波の地まで影響下にあったということでしょう。

大山祇命と瀬戸内海は、非常に深い関係があり、そこに八幡信仰が加わるというのは、興味に深いところです。

 

江戸時代の頃には、下記の絵図は『盥魚庭落葉』(たらいのうおにわおちば)という著作で、亀山藩士・矢部朴斎が村山神社について記録しており、次のように記してます。

「亀城より廿余町程巽、森村という所にある。則この辺三四ヶ郷の産神である。延喜式神名帳にも村山神社と記している。上代明神瀧よりここへ移られたと言う。素謡烏尊なりと言い伝えている。往古は社地も広かったが、今野条村という所に鳥居の沓石など残っていた。兵革の頃焼失したが応永廿七年渡部六郎頼方再興された由、大般若一部社中に納め六郎の寄附と言われる…」

この矢部朴斎の記述は、これまた大変興味深く、
村山神社は、その昔、明神岳(明神瀧)から現在の場所に移り、しかも” 素謡烏尊 “スサノオノミコトを祀っていたとが伝わっていると記しているのです。

これは、丹波の古代史において非常に重要なポイントと考えています。

(村山神社の森、この森には、白鷺や青鷺など、多くの鳥の生息地でもある)

 次に話は、この村山神社の社殿背後の森について書きたいと思いますが、村山神社の裏の森には、古代(古墳時代)の窯跡や、須恵器の破片などが出土しており、この森は、昔から神霊の天降る聖地として重んじられた禁足地となっています。

これは、古代の人々がこの地域に住み着き、信仰の場として崇拝されていたということでしょう。

この辺りの地域は、奈良・平安時代の最大規模の窯跡群、つまり焼き物を焼く窯跡があり、さまざまな焼き物の生産にかかわる「篠窯業生産遺跡群」という遺跡が残っていて、奈良時代には丹波に国府があったこともあり、平安時代には都に程近いという立地条件があったと考えられます。

 この窯跡群が、奈良時代から平安時代にかけての間、須恵器・緑釉陶器や瓦などを生産し続けてきたことが明らかで、窯の総数は100基をはるかに越えており、古代の日本、特に平安時代を代表する一大窯跡群であった地域です。

                         (亀岡市史より)
※上記の地図の(9)の位置が村山神社の窯跡で、そこから山沿いにかけて窯跡群が集中しています。

この窯跡群は、特に平安時代が最盛期であったされ、この丹波から京の都へ向けて大量に須恵器を供給されていたことは考古学調査で明らかになっており、またそれは、酒造りにも大きく関係しています。

焼き物からよむ平安時代

 

 古代京都の氏族で酒造を司る社といえば、梅宮大社が有名ですが、筆者は、この京都の梅宮大社と丹波の村山神社が、深い関係で結ばれていたと考えています。
梅宮大社のご祭神は酒解神(さかとけのかみ)と酒解子神(さかとけこのかみ)は、 大山祇命・木花咲耶姫命と同一と考えられており、村山神社と同じ神と考えて良いでしょう。

 

梅宮大社については、また別の機会に書きたいと思いますので、まずはこちらをお読みください。
梅宮大社(ウィキペディア)

保津川流域である村山神社は、下流の京都・梅宮大社と川で繋がり、また老ノ坂や唐櫃(からと)越えという街道筋にも通じています。
これは、以前、ご紹介した京都の松尾大社と亀岡の大井神社とも通じるところであり、村山神社の集落は梅宮大社の氏族が住み着いたのではないかという推測ができます。

丹波鎮守の杜を巡る旅【大井神社】シリーズ⑷

村山神社の本殿の屋根には、橘の家紋が付けられており、この紋は梅宮大社と同じ紋なのです。

村山神社の周辺の地は、奈良時代から平安時代にかけて酒造を司る橘氏の影響下にあり、室町時代には、瀬戸内海水軍渡辺党の流れを汲むと思われる渡辺六郎頼方が再興していることから、大山祇命を氏神とし、そこに八幡信仰を合体させた人々の勢力がこの地を支配したのではないか…これは推測の域ですが…

江戸時代に入り、鳥居や常夜灯などの寄進が徐々に整えられ、本殿も江戸時代に普請されたと伝わります。

2017年、台風21号の直撃のより八幡宮が倒壊しましたが、氏子やその他多くの人々の協力により、本殿再築が進められています。

 

(さいたに屋)

 

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