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船頭だより
亀岡散策

丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑴   【出雲大神宮】

 保津川は、亀岡市保津町、今ある保津川下りの乗船場あたりから、京都の嵐山までの区間まで流れる川です。
国土交通省が定める名称は「淀川水系桂川」ですが、昔から『保津川』と呼ばれ親しまれてきました。
 保津川下りの歴史は古く、木材を運ぶ筏流しから始まります。およそ約1100年前に変遷された「延喜式」という文献には、滝額津(現在の保津)から大井津(現在の梅津)まで材木が運ばれたという記録が残っています。これは日本の内陸水運の運賃の記載して最も古く、日本の歴史上、非常に重要な水運であったことは間違いありません。


 保津川の筏は、丹波と京の都、そして淀川を通じて大阪湾へと結ぶことから、例えば、長岡京や平安京の建都、檀林寺や天龍寺や臨川寺、そして伏見城や大坂城などの用材にも使用されました。
  特に、この保津川水運の利便性に最も注目していたのが、江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)です。
了以は、慶長十一年(1606)、保津峡谷の区間を船が通れるように開削し、それまで山間部を陸路で運ばれていた丹波産の農産物・炭や薪などの物資を大量に船に積み込み京の町まで運ばれました。
このようなことから、歴史と文化の都・京都を支えたのは、物流としての「筏」や「船」の保津川水運だといえます。

さて、いろいろな資料を調べても、日本の継続されている「水運」というカテゴリーにおいて、「保津川下り」より古い水運はありません。正式な日本の公式文書「延喜式」が変遷された時代をスタートとしても優に1000年を超え、もしかすると世界的にみても非常に貴重な水運ではないかと筆者は考えます。

では、なぜ、日本一古い水運になったのか?

筆者は、そのことに不思議と興味が湧きます。
もちろん、「1200年続いた京の都と、良質で豊富な物資の土地である丹波の国とが川によって結ばれていたから…」という需要と供給のバランスが保たれたという理由もあるでしょうが、それは経済的な繋がりだけでなく、当時の人々の感情的な背景があったのではないかと考えています。
現代の人々より、昔の人々の方が山や川という自然との繋がりが生活と密着していたと思います。例えば、五穀豊穣、子孫繁栄などは、当時の人々にとってかなり重要な事柄であったはずで、その中から信仰や迷信といった特有の地域性が波及していったはずです。その思想というか概念は、当然「保津川」という川に通じて、人々の往来を盛んさせ、丹波・山城地域の文化圏を発展させたと思います。
その感情的・精神的な繋がりこそが、『保津川水運』を継続させた一番の要因ではないかと筆者は考えるのです。

今回、「丹波鎮守の杜(もり)を巡る旅」と題して、保津川流域地域・または丹波の広域地に伝わる伝承などをヒントに、保津川水運の歴史や精神性、そして霊性(風習や祭や民俗芸能など)の背景をつかみ、「なぜ保津川の水運が今も継続されて続けているのか?」という謎に迫っていくために、丹波の各神社を巡って、由緒や祭神、伝わる伝承から調べていきたいと思います。

 


 

出雲大神宮(いずもだいじんぐう)

祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)  三穂津姫命(みほつひめのみこと)
鎮座地 亀岡市千歳町出雲無番地

 出雲大神宮は、保津川下りの乗船場から約7kmほど上流の場所にあり、亀岡市の中でも最も古い神社の一つです。
亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座し、古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709)に創建されたと伝えられます。
 平安時代の歴史書『日本記略』(818)には、「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述があり、この時代にはすでに有力な神社になっていたようです。また、上記でご紹介した「延喜式」の神社名帳にも記載されたている神社で、『丹波国一宮』ともいわれています。
「一宮」とは、飛鳥時代後期に日本の律令制が整えられる際、1国あたり1社を選ばれた神社であり、その地域を代表する神社ということです。朝廷からも国司を派遣され、丹波で最も格式の高い神社といっても過言ではないでしょう。

【保津川下りと出雲大神宮との位置関係】

「出雲」というと、島根県の「出雲大社」を思い浮かべますが、

「丹波風土記」には、

「奈良朝のはじめ元明天皇の和銅年中(708年〜715年)、大国主命御一柱のみを島根ノ杵築ノ地に遷す。すなわち、今の出雲大社これなり。そのため当宮に古来、元出雲の信仰あり」

という記述が伝わります。島根の出雲大社が丹波の出雲大神宮から分社したことが伝えられており、このことから、出雲大神宮の別称を「元出雲」と呼ばれています。ただし「丹波風土記」という書物は、現存しておらず、社伝のみの伝承です。ただ、島根の出雲大社は明治時代までは「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば丹波の出雲大神宮のことをいいます。
例えば、鎌倉時代の吉田兼好の『徒然草』では、「丹波に出雲と云ふ所あり」と「出雲」と表記しているので、「元出雲」の伝承は、まんざら嘘でもないかもしれません。

出雲大神宮の祭神は、大国主命と三穂津姫命の夫婦の神様です。
大国主命は、日本の神話『古事記』の中に登場する神様で、「因幡の白兎」や「国譲り」などのお話が有名です。
丹波に伝わる伝説では、丹波の大地をつくった「蹴裂(けさく)伝説」があります。

その内容は、太古の昔、赤い水の湖であった丹波国を見下ろした大国主命が、湖の水を抜き大地をつくろうと考え、この地域を治める八柱の神々を集め相談し、保津峡を開削させて、豊かな土地をつくったというお話です。

この丹波湖の伝説は、「丹波」の名称の由来ともいわれ、丹波国と大国主命の関係性があったということであり、大国主命は出雲系の神様なので、丹波と出雲を繋ぐ面白い伝説といえます。

次に三穂津姫命ですが、大国主命の后神として祀れています。
三穂津姫命は、高皇産霊尊(たかみむすび)の娘とされます。高皇産霊尊といえば天地開闢の時、最初に天御中主尊(あめのみなかぬし)が現れ、その次に神皇産霊尊(かみむすび)と共に高天原に出現したとされる造化三神の一神で、その高皇産霊尊の娘ということは、三穂津姫が天津神の女神ということになります。
「日本書紀」の別伝には、大国主命が大和系(皇室の祖先神)の神々に国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主命の気魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔したとあります。

つまり、出雲大神宮の祭神は、国津神と天津神の夫婦神であり、「天津・大和政権」と「国津・出雲民族」と和合の証を祀っているということになります。

ここで、少し現在の出雲大神宮を簡単に説明していきましょう。

 本殿は室町時代前期、足利尊氏による元徳年間または貞和元年(1345)の改修と伝えるられます。三間社流造で、屋根は檜皮葺、国の重要文化財に指定されています。
(※足利家と丹波を繋ぐ関係性があると思われます。後日書きます。)

 社殿の背後にある御蔭山が御神体とされ、この山中には磐座があり、社殿横の鳥居をくぐり進むと、一気に神聖な空気に変わります。

 この山中の森は、神様の降臨を仰ぎみた古代信仰が今も起こり、御蔭山には国常立尊の鎮座する地として昔は禁足地とされていましたが、現在は国常立尊を祀る磐座まではお参りできます。

 森の中には、「御陰の滝」という湧き水が湧き出ており、神社境内には「真名井の水」と呼ばれる名水として有名、古くから御神水として崇められています。
この水の成分を調べるとマグマの接触変成岩層から湧き出しているされ。京都の湧き水は「軟水」多い中、この出雲大神宮の湧き水は「硬水」です。

 出雲大神宮の有名な年中行事には、4月18日に行われる「花祭り」があります。
花祭りは、雨乞いの神事の一種とされ、社頭で風流花踊りが奉納され、出雲風流花踊として現在、京都府登録無形民俗文化財に指定されています。
(※例祭は、10月21日。これは丹波の蹴裂伝説の関係があると思われます。今後、鍬山神社や請田神社、桑田神社を紹介する時に触れていきます。)

 さて、「保津川」の名称の由来が、出雲大神宮の祭神である三穂津姫命の 『穂津(ホヅ)』の名前に由来するといわれいます。「三穂津」の「穗」は穀物を意味し、「津」は渡し場の意味します。渡し場とは、舟を進めて川を渡る場所で、港と考えると良いと思います。最後に「三」ですが、三穂津姫は出雲の国(島根県)では『美保神社』とういう神社に祀られおり、「三」を「美」という漢字を当てることができると思います。「美」は「成熟した」様子を意味するといわれ、「豊かで成熟した穂が育つ港がある地」と読み取れば、この周辺が稲作文化と大きく関わる地域ということが、三穂津姫命の神名からも考察できます(※漢字の説は、白川漢字学説を引用)
 上記の航空地図を見てもおわかりいただけると思いますが、亀岡の土地は「山」と「川」、そして「田畑」が目立ちます。
出雲大神宮は、大国主命が大地の神様とすると、美穂津姫命は稲作の神様と考えることはできないでしょうか?

歴史学者の上田正昭京都大学名誉教授は、『ふるさと・鎮守の森』で、次のように述べています。

 弥生時代に入って、農耕生活が定着しまた拡大する。当然のことながら、農耕を基盤とする信仰が主流を形づくってゆくようになる。だがすべて稲作をめぐる信仰によって占められたのではなかった。狩猟などとかかわりの深い山の信仰、漁撈などと密接な海の信仰も長く保持され、畑作と関連する信仰も併存した。日本の神祇信仰の多様性は、時代の推移と共に濃厚となり、朝鮮半島などから渡来の信仰とも重層する。しかし、鎮守の森を聖域とする信仰は、けっして絶えることはなかった。」

このようなことを考察していくと、日本土着の信仰、つまり縄文時代からの古代信仰と、弥生時代の大陸渡来信仰が融合した場所が丹波の国であり、聖域となった場所が出雲大神宮となったと考えられます。

 出雲大神宮には 、横穴式石室を持つ、5世紀から6世紀前の後期古墳があり、また目と鼻の先の場所に「千歳車塚古墳」という墳丘長約82m(推定復元約88m)、高さ約7.5m(後円部)丹波地域最大級の前方後円墳もあります。
奈良時代には、この辺りの地域が丹波の中心であったことは間違いなく、「国府」を定め「国分寺」と「国分尼寺」を建立されました。
 つまり、出雲大神宮の周辺は、簡単に考えても5世紀から6世紀ごろから、かなり大きな勢力が当地していたと考えることができるでしょう。このことは、丹波土着族、出雲族、そして渡来系豪族の秦氏が関係していたと考えています。

【丹波国分寺跡】

 このように丹波は、上流から水を育む川が流れ、山林や農作物が豊かな地であることが、古来より神聖な地として多様な信仰が重層していたことは間違いありません。
このような背景から「千年を超える都京都が誕生した!」、「それらを繋げたのが保津川」ではないか?
そのようなことを想像させれる鎮守の森(杜)の第一番目が出雲大神宮なのです。

(さいたに屋)

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