丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑵ 【鍬山神社】
丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ⑵ 【鍬山神社】
保津川下りは、なぜ日本最古の水運になったのか?
この謎に迫るため、「丹波鎮守の杜(もり)を巡る旅』と題して、保津川流域地域・または丹波の広域地に伝わる伝承などをヒントに、保津川水運の歴史や精神性、そして霊性(風習や祭や民俗芸能など)の背景を調べながら、丹波の寺社などをご紹介するシリーズを連載していければと考えています。
保津川下りが、日本最古の水運になった理由として、出発地の丹波が、古来、山陰道の入り口であり、畿内、京都との関係の中で特殊な立地条件であったことがまず第一に挙げられると思います。
現に、時の権力者たちは亀岡(山)を含めた丹波支配に、大変重きを置いた節が歴史上から見受けられ、例えば、四道将軍で ある丹波道主(たんばのみちぬしのみこと)、大神氏(おおみわ)である大神朝臣狛麻呂、 近世では織田信長に仕えた明智光秀、織田信長の四男で羽柴秀吉の養子であった羽柴秀勝、また、江戸期には徳川譜代の大名など、かなりの地位の人物たちが丹波支配に乗り出しています。
例に挙げた人物だけでもかなり伝承を残していくわけですが、庶民の間でも、その特殊な土地柄から祭りや風習などが誕生していきます。
今回は、その丹波の中でも、その伝承が色こく残っている鍬山神社ついてご紹介したいと思います。
鍬山神社 (くわやまじんじゃ)
祭神:・大己貴命(おおなむじちのみこと)※大国主命 ・誉田別尊(ほむたわけのみこと)※応神天皇
鎮座地:亀岡市上矢田町
鍬山神社は、和銅2年(709)に創祀と伝え、平安時代に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された丹波国桑田郡十九座の内の一社です。
【保津川下り乗船場との位置関係】
鍬山神社は、保津川下りの乗船場からは約3km南の場所にあり、面白いことに、出雲大神宮とは南北に直線状(約7km)に対して鎮座している位置にあります。
【出雲大神宮との位置関係】
ご由緒は、古代、亀岡盆地が赤い水の湖であったころ、出雲大神(大国主命)が、八柱の神々を黒柄岳に集め樫船に乗り、鍬や鋤を持って浮田(請田)の峡(現在の保津峡)を切り拓き、水を山城国へ流して干拓して肥沃な土地をつくったとされ、その時に使った鍬が山のようにうず高く積みあがったことから、鍬山神社と呼ばれようになったとされます。
ご祭神は、大己貴命と誉田別尊。
【鍬山社】
本殿は、二つの社が並び
向かって左側が鍬山社・大己貴命(おおなむちのみこと)で、出雲大神宮と同じ神様の大国主命になります。
ただし、古事記では「オオナムチ」は、若い時の名前とされ、大国主命は『大いなる国を治める王』という意味で、「大国主」の名は素盞鳴尊(スサノオウ)から貰った名前とされています。
大己貴命は、天照大神と月読命と共に三貴神とされる素盞鳴尊の御子、または六世の孫とされる神で、出雲神話の主役であり、国造りやの神でありながら、農業神、禁厭(まじない)神、そして薬神として医療の神として、古くから崇敬されてきました。その医療の神としての由縁からか、
永観2年(984)、日本最古の医学書である『医心方』三十巻を著した丹波康頼(たんば の やすより)は、鍬山神を崇敬していたと伝えられます。
丹波康頼は、平安時代中期の貴族で医者、日本国で最初の公式医学者というべきでしょう。康頼は鍬山神社の近く住み、薬草を育てたとの言い伝えがあり、その地を「医王谷」と呼ばれています。
(ちなみに、この丹波康頼の子孫が俳優の丹波哲郎さんであるとか…)
【八幡社】
一方向かって右側の社は、八幡社・誉田別尊が祀られています。八幡社の祭神・誉田別尊は、一般的に第15代・応神天皇とされます。応神天皇の祖父は、古事記や日本書紀などで伝説的の英雄として描かれている日本武尊(やまとたける)で、母は「三韓征伐」の伝説を持つ神功皇后(じんぐう)です。こうした側面から清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神・「武神」として崇敬を集め、また早くから神仏集合し仏法の守護神として「八幡大菩薩」の信仰もあります。
こちらの鍬山神社では、永万元年(1165)、天岡山(面降山)に手に弓と矢を持った武人の姿をした神が「八幡大明神」と名乗り降臨された伝承があり、その後、鍬山神社の傍らに八幡宮として祀られるようになりました。ところが、それ以来、夜ごとに雷雨がおこり、争うような叫び声が鳴り響いたとか、翌朝、神社のあたりへ行ってみると、兎(うさぎ)と鳩(はと)とが死んでいたそうです。それが幾夜も続きので、人々は考えをめぐらし、新宮を別の場所に移した(杉谷とういう場所)ところ、その奇妙な現象は治ったそうです。両社はその後、新しく現在の地に並列して建立した時、この故事から両社の間に池を設けられました。
【両者の間の池】
鍬山神社の鎮座する矢田という地ですが、
昔は、八つの神田(社領田)があったことから「八田」と言われていましたが、のちに源頼政(平安時代末期の武士)が当地を拝領するにあたって「矢田」に改めたといわれています。
鍬山神社では、室町時代、奉納の神楽、猿楽、相撲、競馬などが祭事が盛んに行われ、特に猿楽は、由緒正しい丹波猿楽の代表格『矢田猿楽』と呼ばれ、能の前身ともいわれています。ところが天正4年(1576)に、織田信長の家臣・明智光秀が丹波攻略時には一時衰退してしまったそうです。
明智光秀の時代以降、慶長15年(1610)亀山城主の岡部長盛が現在の地に社殿を造営をきっかけに、寛永16年(1639)に藩主・菅沼定房から社領寄進や、延宝九年(1681)、町年寄・杉原守親が『祭礼中興記』を記し祭礼を徐々に再興さてきました。そして、同年に城主の松平忠晴から神輿が寄進され、以来例大祭として「亀山祭(のち亀岡祭)」が行われるようになります。
【亀岡祭の山鉾】
亀岡祭を語る上で、出雲大神宮にも伝わる、「丹波湖蹴裂(けさく)伝説」を切って語ることはできません。
大国主命を中心として、他の神々(八柱)の相談のもと、それぞれの役割を分担して、保津峡を開削し田庭を開いたかみとして鍬山神社も一役を担っているということであり、「鍬」という土木工事に使う道具の名があるということは、保津峡開削、または田地開発の実行部であったとが推測されます。
このような伝説は、伝説だからと馬鹿にはできなく、現代地質学の研究においても丹波の地が海の底であったことが証明されています。
【約100万年前の様子(上治寅次郎原図)】
保津川下りをしている途中に、「書物岩」と呼ばれる岸壁がありますが、この岸壁は、深海底に蓄積した放散虫というプランクトンの死骸や海綿の骨針などからできたものです。放散虫の種類でよって年代がわかるそうで、研究によると約2億5千万年前のものだと考えられます。
【保津川のチャート層(書物岩)】
つまり、保津川下りの途中の「書物岩」は、丹波が昔、湖であったという名残りなのです。
鍬山神社の例祭である「亀岡祭」では、現在11基の山鉾が巡行するお祭りです。
祭の由緒は、大国主命の命を受け、神々が一艘の樫舟に乗り込み、1杷の鍬で請田(保津峡)の峡を開き、肥沃な農地にかえたという神徳を称えた祭であり、江戸時代に次々と山鉾が建造され、「丹波の祇園祭」などといわれるようになりました。
※現在の11基の山鉾
「翁山」 「浦島山」 「稲荷山」 「羽衣山」 「難波山」 「三輪山」 「武内山」 「蛭子山」 「高砂山」 「八幡山」 「鍬山」
さて、祭神である鍬山社「大己貴命」と八幡社「誉田別尊」の関係が仲が悪いという故事を書きましたが、筆者は、ここに興味を引かれます。
それは、やはり秦氏が関係するのではないか?と考えます。
【紅葉の名所として有名】
秦氏は、『日本書紀』や『新撰姓氏録』によると、中国の秦の始皇帝の末裔とされ、応神天皇14(283)年に百済から日本に帰化した弓月君が祖とされる渡来系の豪族とされます。(※新羅系という説もあります)
5世紀ごろ、山城(山背)国・丹波桑田地域など桂川流域に移住したと考えられています。
『山城国風土記』や『日本後記』によると、大堰川(保津川)は、古くは「葛野川(かどのがわ、葛野河)」と呼ばれていましたが、秦氏が、葛野川を工事し、井堰を築き灌漑用水を引いたことから、「大堰川」という河名になったといわれます。また井堰だけでなく、渡月橋から松尾にかけての桂川東岸の罧原堤(ふしはらづつみ)も築造されたといわれており、秦氏の勢力下で治めていたようです。
※天長5年(828)の『葛野郡班田図』にも記載されいますので、少なくとも平安時代初期には桂川流域に大きな勢力を持っていたことがわかります。
平安時代初期の諸氏族の氏族伝承を記した「秦氏本系帳」では、秦氏は桂川に「葛野大堰(かどののおおい)」を築き、その後
その証拠として、この流域一帯に5世紀ごろの古墳が多く分布し、また秦氏に関連する多くの寺社が残っています。
雄略天皇(応神天皇の曾孫)の時代、 秦氏は養蚕、織機械にも長けており、秦酒公(さけきみ)が絹を「うず高く積んだ」で天皇に献上したことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これが「太秦」(うずまさ)という地域の地名の由来とされます。
【秦氏顕彰碑:嵐山】
鍬山神社の伝説には『兎』(うさぎ)が神様の使いとして出てきますが、おそらく、これは「因幡の白兎」の伝説からきていると思われますが、秦氏が本拠としていた「太秦」の由来の「禹豆満佐」も『兎』も文字が入ってい『ます。
筆者は「兎」といえば、中国古代の伝説的な帝で、夏の創始者である兎王という人物に繋がると考えています。
夏王朝といいますと、紀元前1900 から 紀元前1600年頃、史書に記された中国最古の王朝といわれ、創始者である兎帝は、黄河の治水を成功させたという人物として語られています。
丹波の開拓の神である大己貴命の『兎』と、中国の禹王は、何らかの関連があると思われ、それを繋ぐのが秦氏で、そして、大己貴命が丹波開拓の際、相談した「八の柱の神々」も秦氏に繋がる神である「八幡神」と考えられます。
まず、八幡神は「八」は古代の考えとして「多く」という意味をなします。「矢田」の地名が元々「八田」と呼ばれていたので、「八柱の神」と関係すると思われ、そし「八幡神(ヤハタの神)」という意味が繋がり、「八田」と「ヤタ」、そして、「八」の「秦」、「ヤハタ」にとなるのではないか?(憶測ですが…)
つまり、鍬山神社は、まとも秦氏の影響下にあった神社であると私筆者考えます。
または、秦氏が大己貴命(大国主)の勢力つまり出雲勢力に加入したか、組み入れたか?
兎(うさぎ)と鳩(はと)の争いの故事は、両社に争いがあったということであり、その争いがありながらも芸能や祭事から神託で当時の人々が融合していったのではないか…
鍬山社(大己貴命)
現在は、もちろん、両社は仲良く鎮座されています。
鍬山神社では、その昔、雨乞いの神事が村々一体となり行っていた様で、やはり稲作文化と切っても切れないことは間違いありません。
「丹波湖」を切り開き、丹波一体の田地を開拓し、農耕文化の中から芸能や神事などから独自の文化を発展させたと思われます。
八幡社(誉田別尊)【鳩】
そして、丹波を切り開いた伝説を讃えた祭として、江戸時代に復活した「亀岡(山)祭」は、藩と民との協力した官民一体の祭でした。
それは、山陰道の入り口であり、畿内、京都との関係の中で特殊な立地条件だった丹波亀岡(山)が、古来から重要な土地だったという証拠であり、鍬山神社では、その伝説を大事に守ってきた鎮守の社(やしろ)なのです。
今では鍬山神社は、紅葉の名所としても有名で、多くの参詣者が訪れいます。
八幡神については、次回、篠村八幡宮についても触れていきたいと思います。
(さいたに屋)
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