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船頭だより
歴史ブログ

本能寺の変の謎 

 

 

 

 

 

 

 

 

これより東、山城の国

1582年(天正10)6月2日、428年前に

明智光秀の軍勢が、この老ノ坂を通り、織田信長がいる京都本能寺を攻め込みました。

「本能寺の変」です

総勢1万3千といわれる軍勢が丹波亀山城(亀岡)を出撃し、主君信長がいる京都本能寺を目指すまでの道中、

光秀の心境はいかばかりであったことでしょう?

今日は、その「本能寺の変」の謎に迫りたいと思います。

 (※上記の暦は陰暦です。)

 

 本能寺の変には謎が多く、織田信長家臣団の筆頭格であり、信長により浪人から見出されたこともあり、光秀にとって信長は大恩人でもあります。

この通説じみた前置きが、謎を呼び、明智光秀という武将が「謀反人」「賊人」という汚名をきせられてしまい、光秀という武将の評価を大いに下げさせます。

また、あまりの突拍子のない光秀の裏切りに、後世の歴史学者や研究家は本能寺の変の原因を上げ、いろいろと説を立てます。

ちょっと、代表的な説を上げましょう。

 

まずは、光秀怨恨説

この怨恨説でも、いろんな話があります。

◆徳川家康接待役を解任され公然の前で恥をかかされたから。

◆丹波八上城で人質であった光秀の母を信長の命令により死なせてしまったため。

◆武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったことを、信長が

聞き、「おまえごときが何をしたのだ」と足蹴にされたこと。

◆坂本・丹波の光秀の領地を召し上げられ、まだ敵地の出雲・伯耆もしくは、岩見の国がえを命じられたため

と、まあ、他にも数々と説があります。

また、怨恨説以外に光秀自身の野望説

光秀単独犯ではなく、

黒幕説

も、まことしやか論じられています。

最近は、この黒幕が誰であったか、最近の歴女ブームもあり、

数々の黒幕の人物や勢力が上げられて、テレビ番組でも取り上げられ、本能寺の変を題材とした本なども書店でよく見ます。

ちょっと黒幕説を上げると…

◆足利義昭説

◆朝廷説

◆イエズス会説

◆羽柴秀吉説

◆徳川家康説

◆堺商人説(今井宗久や千利休など)

などなど、これもまた他にも沢山の説があります。

そこで今日は、亀岡在住保津川下りの船頭的「本能寺の変」の謎

に迫りたいと思います!

 最初に述べたように、本能寺を攻めた光秀軍は丹波亀山城から1万3千の兵で出撃しています。

この中には、光秀親衛隊というべき部隊である近江衆や山城衆もいましたが、大半は自国の丹波衆が軍勢を占めていました。

つまり、いくら光秀が個人的に信長を討ちたくても、丹波衆が

「YES」

といわなければ光秀についていかないということなのです。

 

もちろん、主君の言うことが絶対だから、光秀の言うことをきかないといけなかったと思われるかもしれません。

しかし、そのような主従制度が完全に確立されたのは秀吉の時代になってからなのです。

信長は兵農分離を推し進めて人物ですが、完全に信長軍団を確立出来ておらず、ただでさえ、全国にいたるところに征伐軍を派遣していたので、丹波の軍団のほとんどが寄せ集めの連合軍だったのです。

裏切ろうと思えば、いくらでも光秀を裏切れたはずです。

ということは、光秀が信長を討つことを主要な丹波衆は知っていたのではなか!

というのが保津川下り船頭的「本能寺の変」の見解です。

つまり、「本能寺の変」の背景には丹波衆の意志が反映されていたはずなのです。

では、丹波衆の意志とは?

これまた、保津川下り船頭的見解でいくと、

丹波衆は、地方分権型の政治を求めていた。

しかし、信長の政策は、完全なる中央集権。

元来、丹波は「これ」といった君主や大名がおらず、「どんぐりの背比べ」のような小さい豪族が連合体となっていました。

信長も当初は、その丹波の連合体を認めていましたが、

やはり、京の都の隣に連合体がいるのは目の上のたんこぶでありました。

信長は、これを光秀により掌握させ、丹波を我がものとしまし、信長型中央集権の政策を推し進めていきます。

 

丹波衆のほとんどは、信長型政策を快く思っておらず、本能寺の変で光秀を利用した?

もしくは、光秀と考えを同調したのではないでしょうか。

 

昨今も道州制や地方分権が政治において語られます。

「本能寺の変」も単なる個人的な感情でおきた出来事ではなく、

あきらかに、政治的な要因があったと思われます。

丹波衆の光秀に対する思い入れは、後の江戸時代になっても消えることなく、現在でもそのなごりが残る風習や史跡が残っていること、これがなによりもの証拠です。

まずは、みなさん!!

ちょいと亀岡によってみてください(^o^)/

本能寺の変の謎が見えてくるはずです。もちろん、保津川下りもお忘れなく   n(uu)n

 

 (byさいたに屋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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