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船頭だより
歴史ブログ

明智光秀以前の丹波の歴史「武将編」 柳本賢治(やなぎもと かたはる)

丹波武士の戦国時代の戦法は、丹波の山に籠り、地形を生かして籠城戦で戦い、最後は相互の連携で勝利するという戦いかたがほとんどでした。

しかし、そんな丹波武士の中にありながら、丹波国から撃って出て、覇権を争うという武将がおりました。

その名は、柳本賢治(やなぎもと かたはる)。

柳本賢治は、波多野清秀の子として生まれ、波多野元清(稙通)、香西元盛の弟でした。

大永6年(1526)、兄でる香西元盛が細川尹賢の讒言により細川高国に謀殺されたため、賢治は、もう一人の兄である波多野元清とともに高国に叛旗を翻します。

賢治は、阿波の細川晴元に味方し、丹波神尾山城(京都府亀岡市)に拠点を置き高国と対峙します。

(神尾山城があった山)

細川高国は、細川尹賢を使い賢治が籠城する神尾山城を攻めますが、

賢治率いる丹波兵が見事に城を守りきり、今度は逆に丹波守護代の内藤国貞とともに尹賢を丹波から撃退します。

賢治は、大永7年(1527)2月の桂川の合戦(川乗寺合戦)では高国軍を破り、高国と12代将軍足利義晴を近江へ敗走させます.

この後、足利義維(よしつな)と細川晴元、三好元長らが堺幕府が成立させますが、この功績には丹波武士である賢治は大きく貢献しました。

翌年も賢治は、高国に組みする大和国の畠山稙長の誉田城を攻撃し落城させるなどの活躍をします。

しかし三好元長方の伊丹某を殺害したことから、元長とは関係は悪化、

翌年享禄2年(1529)正月、賢治は元長方の大和国の赤沢氏を攻撃、3月には伊丹城を包囲し、伊丹元扶(いたみ もとすけ)を討ちます。

賢治は、戦えば常に勝利を納めていましたが、

翌年の享禄3年(1530)、高国と手を結んだ東播磨の浦上村宗を攻め立てますが、その進軍中、陣中で就寝していたところ村宗によって謀殺されてしまいます。

 

この柳本賢治は、丹波から撃って出て勝利を治めたという丹波武士の中では稀有な人物であったと思います。

この細川高国の時代に登場する武将達の中では最強クラスにランキングされていたのではないでしょうか?!

最終的にはあっけない最後ですが、丹波の武将の恐ろしさを世に知らしめた人物ともいえます。

 

(さいたに屋)

 

 

 

 

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