明智光秀の書状に「保津川」の記述が…
来年の大河ドラマの主人公が明智光秀に決定。
『麒麟がくる』(2020年)
この度、私筆者が明智光秀の直筆の書状で驚くべき記述を見つけました!
年代は不詳ですが、明智光秀が小畠左馬進(永明)という武将に宛てた書状に、しっかりと
『保津川』
と明記されています。
参考【新修亀岡市史 資料編】より
「何をそれぐらいで…」と思われるでしょう?
しかし、私たちが毎日下っている『保津川』は、
一本の川でも「大堰川」や「桂川」という名称で呼ばれたりします。
ですので、
光秀が『保津川』と明記してくれたことは歴史的なことです!!
光秀は、天正3年(1575)に織田信長から丹波平定の名を受けて攻めますが、
最初はかなりの苦戦を強いられるしいられます。
そこで丹波の土豪である小畠左馬進などの武将と連携を測る戦略に切り換えます。
おそらく、上記の書状は、その時代の書状と思われます。
書状の内容は、
建築のための材木を河原尻村から保津川端まで移送するように要請した書状です。
「心柱」や「冠木」は、寺や城などの大きな建物の柱の名称なので、
おそらく丹波亀山城築城のために、材の確保の指示をしたものでしょう。
光秀は、この小畠左馬進に対して他にも多くの書状が残っており、
丹波攻略に際して、光秀は左馬進をかなり信頼していたようです。
【丹波八上高城合戦図/篠山市・誓願寺蔵】
その光秀の絶対的信頼を得ていた武将 小畠左馬進は、天正7年(1579)の八上城攻めの際に討死してしまします。
この小畠左馬進(永明)も、来年注目したい武将です。
大河ドラマでは、明智光秀による丹波平定がどう演じられるか?
楽しみです!
(さいたに屋)