光秀・秀吉・高虎 その一 (姫路城の弱点)
10月9日(土曜日)
この日、僕は午前中に船の仕事を終え、
「先人に学ぶガレリアフォーラム」
丹波亀山400年
『光秀・秀吉・高虎』
~丹波亀山城をめぐる天下の動向~
に行ってきました。
丹波亀山城に関わる、初代城主明智光秀、重要拠点とした豊臣秀吉、五重の層塔型天守を完成させた藤堂高虎の動向、さらに天守の構造、石垣など、丹波亀山城への歴史を認識を深める場とすることを趣旨とした歴史シンポジュームです。
【パネルスト】
三浦 正幸 さん (広島大学大学院教授)
藤田 達生 さん (三重大学教育学部教授)
永光 寛 さん (亀岡市文化財保護委員会委員)
【コーディネーター】
黒川 孝宏 さん (亀岡市文化資料館館長)
まず、三浦正幸さんからは、藤堂高虎による築城の特徴、丹波亀山城全体について述べられ、
工学博士で1級建築士でもあり専門が日本建築士・文化財学であることから、藤堂高虎の建築技術を研究発表されました。
その中で丹波亀山城の天守は、その当時、日本最高装置の戦闘天守であることともに、層塔型天守の初期の城として、現存しないことは日本建築の歴史の遺産として実に残念であると述べれました。
特に、僕が面白いと思ったのは、
望楼方である姫路城の天守の弱点を指摘されました。
上の写真は姫路城天守の梁間断面図なのすが、姫路城天守の三階床を見てください。
左の方に階段が見えますが、これが姫路城天守の弱点・欠陥建築だそうです。
なぜ、窓ぎわに階段があるかというと、
望楼型天守とは、簡単にいうと、櫓を積み上げていく建て方で、
姫路城のような大きな櫓を持つ天守は、屋根が必然的に大きくなり窓が高くなってしまします。
天守とは、
もともと、敵を見張るためのやぐらであり、戦闘を指揮したり、もちろん、弓や鉄砲などを下の敵に撃ったりもするように考えてあります。
窓が高いと、当然不便であり、360度見張るためには、この階段は非常に不便であったのです。
日本で初めて建築された層塔型天守であるとされる丹波亀山城は、
姫路城天守の弱点を克服されており、屋根側の梁をずらして、床を上げるています。
これにより、「武者走」という360度見回ることができるようになり、
この丹波亀山城の形態は、江戸城にも採用されました。
江戸城は、最後の戦国時代の覇者、徳川家康が建てた城でありますが、
家康は、その経験を駆使し、丹波亀山城と同じ形態の天守を採用したことは、
江戸城こそ、最強の要塞であるというこであり、
丹波亀山城は、そのさきがけであったわけです。
三浦さんは、
戦略的にも丹波亀山城の価値を述べられ、
1610年に丹波亀山城が再建築されたことは、
大坂城の豊臣方への包囲網になったわけですが、
その後、京都の隣の丹波亀山に、最強の天守を持つ丹波亀山城があることは、
260年の徳川幕府を安泰させた要因の一つにもなるとされ、
この時代、全世界的にも日本は類を見ない文化の発展を果たした
と、豪語されました。
確かに、江戸時代は、日本の
国力を大きく発展させたことは間違いなく、
例えば、江戸の都市は人口100万人いたとされ、全世界で一番人口の多い都市でありました。
また、江戸・京都・大坂は、特に当時世界一番の清潔な都市に並べられ、平均寿命の高かったのです。
その第一の要因として、260年間大きな戦争もなく、平和であったのは、
家康が、外様大名などにむけて、堅強な城を各地に建築したことが上げられます。
その一つが丹波亀山城だったのです。
さいたに屋