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船頭だより
歴史ブログ

魁!山国隊 シリーズ1 〜保津川に繋がる人々の心情と誇り〜 

毎年、10月22日に行われる京都三大祭の一つ時代祭。(葵祭・祇園祭・時代祭)
残念ながら今年も中止ですが…
その時代祭の先頭を歩くのは「維新勤王隊」といい、錦の御旗に陣羽織、笛と太鼓を鳴らし行進する姿は、まさに祭の魁(さきがけ)といえます。

この維新勤王隊列のモデルは、「山国隊」といいます。

山国隊は、戊辰戦争(1868年)の際、丹波国・山国村(現京都市右京区京北)の農民らが組織した農兵隊で、新政府軍(官軍)の一員として出陣した隊です。

淺川道夫・前原康貴 著
『丹波・山国時代祭「維新勤王隊」の由来となった草奔隊』

この著書では、
山国隊結成から、その活躍、そして時代祭へ…
その一連の歴史が詳しく調べられています。

今日は、こちらの書籍から、同じ保津川流域に繋がる船頭として、筆者なりに山国隊について迫ってみたいと思います!!

その前に、山国隊ができるまでの背景を「山国」という土地の歴史をご紹介します。

 

 山国という地域は、京都府京都市右京区北部の山間部にある盆地で、淀川水系の上流であり、さらに保津川も遡り、現在は京都市右京区京北に属します。

 古くは、平安京造営の木材を供給していた郷で、古くから皇室との関係が深く、京都で戦乱などがあれば避難場所にもなりました。
しかし、時代は太閤検地(豊臣秀吉の時代)と江戸幕府となり、次第に禁裏直轄(皇室)の荘園(所有地)は解体され、幕府直轄地となったり、寛文十二(1672)年には、梶井宮(大原三千院)の領地となり、また、元禄十一(1698)年、旗本杉浦氏の領地となります。

ところが、宝永二(1705)、五代将軍徳川綱吉が、草高一万石を朝廷に献納し、山国の一部は禁裏御領地として復活します。
こうして、皇室御領、梶井宮領、旗本杉浦氏領の三つに分割されたまま、統治が幕末まで続きます。

山国の郷の人々の心情は、禁裏御領の民である誇りと、それと同時に祖先から受け継いだ山と田畑を取り戻したいという悲願があり、このことが、山国隊が新政府軍に加わった最大の理由と言えます。

 

山国の人々の心情根底にある「禁裏御領の民である誇り」を歴史的観点で遡ってみると、

そもそも、山国のはじまりは、平安時代以前の長屋王出土の木簡に「桑田郡山国里・秦長椋伊賀加太万呂二人六斗」と記された土地で、この木簡が、現在までに残る山国を記した一番古い記録です。
長屋王は、奈良時代の王族官人で天武天皇の孫、高市皇子の子ですから、「山国」という地名は、平安時代以前からあったということなります。

                              長屋王邸宅跡で見つかった「山国ノ里」と記した木簡

そして、桓武天皇の延暦年間の平安建都に時には、山国の材木で大内裏宮殿を造営するため、山国を御杣として、木工寮·修理職の所管地となりました。

⚫︎木工寮とは、主に造営、および材木採集を掌り各職工を支配する役所のこと。
⚫︎ 修理職とは、主に内裏の修理造営を掌る官職。

すなわち、山国は朝廷が認めた直轄地であり、良質な材木を有する丹波桑田郡・山国荘は、大堰川(保津川)を利用して筏で木材を都まで運ばれる供給地でもありました。
 山国には山國神社という式内社(平安時代に編纂された延喜式神名帳に記録された社)であり、大己貴命(大国主命)を祭神として祀られた神社があります。神社の御由緒では、宝亀年間(770年-780年)に和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭主として祀られた神社です。
                           山國神社
和気清麻呂といえば、奈良時代後期から平安時代初期かけての貴族・政治家であり、怪僧・道鏡の野望を打ち壊し、平安建都(遷都)を進言した人物です。
淀川や大和川の治水工事にも携わり、延暦12年(793年)には造宮大夫に就任し、平安京の造営・修理の建都事業に尽力しています。
これは和気清麻呂が、都に木材を運ぶため、大堰川(保津川)の治水工事も携わっていたことを伺えます。
ちなみに、和気清麻呂は、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身であり、そこには和気川(現吉井川)が流れています。この和気川(吉井川)には天然記念物の淡水魚アユモドキが生息してます。
このアユモドキは、現在、日本では岡山県の和気川(吉井川)と京都の保津川にしか生息していません。
もしかすると、アユモドキと和気清麻呂が関係するかもしれません。
                     和気 清麻呂(わけ の きよまろ)
 ちなみに、江戸時代、1606年に豪商・角倉了以は、和気川の高瀬舟を見て、保津川開削を考えたと伝わります。
また、この流域の地域から船頭を呼び寄せていますので、保津川流域と備前・備中の吉井川(和気川)・高梁川の流域は何らかの関係性で結ばれているかもしれません。

 江戸時代における物流は、山国の郷に大きく関わってきます。その出来事が二つ。一つ目は慶長十一(一六〇六) 年、角倉了以により、大規模な保津川(大堰川)開削に施行です。
これにより丹波~京都の水運一帯は物流と人の往来が盛んとなり、山国の郷の名主たちは、角倉の開削を期に円滑な筏流しのため浚渫工事を繰り返し行い、木材流通は一段と効率を高められたようです。
こうした努力によって保津川(大堰川)の水運はますます利便性を増し、丹波と山城間の交易における山国の存在感は嫌が応にも増します。
                      角倉了以蔵(大悲閣 千光寺蔵)

 もう一つは、文久三(一八六三)年、豪商河村与三右衛門の考案により、嵯峨嵐山で大堰川から分水して東へと流れて千本三条へ繋がる運河、西高瀬川の開削です。
文久3年は、徳川将軍・徳川家茂が上洛の年であり、これに伴い西国大名などが物資を西高瀬川に運ぶ利便性があります。ちなみに工事費用は幕府が捻出しています。
これにより丹波からの流通はなお一層盛んとなり、そのため材木取扱いの出張所を京都に置いて、山国の名主たちの一部はここに駐在していました。
丹波の材木生産や、諸物産の運送から卸しまでを山国の名主たちが請負っていて、村民も様々な理由で京都へ往来したり、また移住しやすい環境にあったので、山国は京都から遠く離れてはいたものの、時局の動静をいち早く知る立場にありました。

さて、江戸時代の山国は、皇室御領、梶井宮領、旗本杉浦氏領の三つに分断されたまま幕末を迎えます。

明治維新という日本史上でも大変大きな転換期に際し、中世以来の山国の名主たちは、祖先から受け継いだ山と田畑をなどの土地を取り戻すことと、禁裏御領の民であるという誇りを胸に持ち、義勇兵として新政府軍に参陣することを決意するのでした。
(次号続く)

さいたに屋

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