保津川図屏風 円山応挙絶筆の作品
現在、京都近代美術館で開催されている
「円山応挙から近代京都画壇へ」に行ってきました。
お目当ては、やっぱり円山応挙の作品です。
円山応挙は、江戸時代中期(18世紀中頃)に京都で活躍した代表的な絵師。
当時の文化人・名士をランク付けした『平安人物志』の中では、伊藤若冲より上の評価をされた人物です。
応挙は丹波南桑田郡穴太村(現在の亀岡市曽我部町穴太)の生まれで、一般的に知られているのは、
足のない幽霊を描いた元祖として知られています。
日本で幽霊といえば「足がない」というイメージは、応挙が世に広めたといえます。
(実際は、応挙以前の浄瑠璃の挿絵に足の幽霊が描かれているそうです。とはいえ、幽霊画というジャンルの確立したのは応挙と言って過言ではないでしょう。)
今回展示されている作品の中で、応挙が亡くなる一ヶ月前に描いた最後の作品、
『保津川図屏風』が展示されています。
この作品は、二曲一双(にきょくいっそう)という2枚の屏風で描かれており、
右隻、左隻の流れが中央に集まるようになっています。
「保津川」という表題は正確には示されいませんが、京都の川でこの濁流があるのは保津川しかないので、間違いないと思われます。
(小鮎の滝・勾配2Mある保津川で一番の落差のある場所)
私たち保津川の船頭から見て、『保津川図屏風』の場所は、間違いなく小鮎の滝がモデル場所でしょう。
「保津川」は、応挙の故郷、丹波(亀岡)であるので、とても親しみのある川だったのかもしれません。
では、なぜ、当時も流れていたであろう保津川下りの舟を描かなかったのか?
私は、ずーっと謎に思っていました。
しかし、今回の「円山応挙から近代京都画壇へ」の解説の中で、目から鱗、素晴らしい説明文が有りました。
以下、抜粋。
川の流れが右隻は右から
「左へ、左隻は左から右へとなっていることで、本作を横並びに展示すると川の水が中央に集まるこ
とになる。
そこで、右隻と左隻を向かい合わせで「並べ、その間に座ると、保津川の流れの中に身を置いている感覚を味わらことができる。
ダイナーミックで迫力のある水流に目を奪われるが、じっくり見ると左隻には鮎の姿もあり、細かい部分ま
で丁寧に描き込まれている。
立体感のある岩の描一写からは、亡くなる一ヵ月前に描いたとは思えない力強さを感じる。(平井氏解説)
つまり、この「保津川図屏風」は、見る側の立場も計算した、3D画像だったのです。
この画を描こうと思うと、川のど真ん中でないと描けません。
川のど真ん中といえば、舟か筏か?
しかし、高齢の応挙が、水に浸かる筏の上に乗って描くことは考えにくいので…
そうなると、やはり舟を浮かべ、舟中にから絵コンテ・下書きをしたのではないか…と考えられます。
その証拠として、あの臨場感のあるダイナミックな二曲一双の保津川図屏風が物語っているのです。
さて、最後に、この「円山応挙から近代京都画壇へ」は、
12月15日までの開催です。
円山応挙から通じる京都の画壇の画家たちの作品も一堂に拝観できます。
こんな機会は滅多にないことなので、ぜひ、ご来場ください。
(京都近代美術館からの平安神宮の鳥居)
さいたに屋