丹波亀山城址 〜明智光秀が築城、そして…〜
先日、公益財団法人生涯学習かめおか財団主催、
丹波学トーク第94回
「お城のあるまちに暮らす。」
というフィールドワークに参加させていただきました。
講師には、
城郭ライターの萩原さちこさん
コーディネーターには、前亀岡市文化資料館館長で現在市民大学学長の黒川孝宏さんを迎え、
地元、亀岡市にある丹波亀山城址を見学させていただきました。
丹波亀山城は、天正5年(1577)ごろから明智光秀が丹波攻略の拠点とするため築城した城で、本能寺の変の出陣地でもあります。
現在は、宗教法人大本が管理され、大本さんの聖地として信仰の場となっていますが、江戸時代の頃は、五層の塔型天守閣を持つ城でした。
【明治初期の丹波亀山城 撮影:三田村顕教/亀岡市文化資料館蔵】
城郭ライターの萩原さんからは、城や石垣・堀・城下町の特徴などの解説だけでなく、丹波の地形から見た亀山城の位置づけ、戦略的・商業流通からの目線でも詳しく語られました。
また、黒川さんからは、
江戸時代に天下普請として築城された痕跡として、
石垣に大名の刻印が刻まれていることなどを詳しく説明していただきました。
丹波亀山城は、明治10年(1877)に廃城処分となり天守閣は取り壊し、
その後、大本が二束三文で売りに出せていた亀山城の土地を購入されましたが、
大正時代、当時の日本政府から大弾圧を受け、神殿などの施設をダイナマイトで大規模な取り壊しが行われました。
ある意味、丹波亀山城は、戦国・江戸期の時代よりも、大正・昭和初期という時代の中で激動の時代に巻き込まれ、破壊されたという歴史を辿ります。
しかし、戦後、大本の信者さん等が懸命に修復作業され、現在でも城の痕跡を偲ぶことができます。、
今回お二人から、面白い説明があったのは、
大規模な破壊の中でも、石垣の下の部分は、当時もままの可能性が高いそうで、
その証拠として、戦国時代に活躍した石工集団である穴太衆の末裔栗田建設の方も評価さておれるそうです。
穴太衆といえば、滋賀県坂本が発祥で、坂本といえば、
明智光秀が初めて城持ちとなった土地です。
実際、坂本城の石垣も穴太積みであることから、
現在の丹波亀山城址の本丸の石垣の下部分は、光秀が築城した亀山城の痕跡が残っていると言っても過言ではなさそうです。
この様な歴史の浪漫を感じ入ることができるのは、大本さんが管理して大事に保存して頂いてきたお陰であり、
現在も宗教聖域以外は、自由に見学することが出来ます。
丹波亀山城については、以前にも書いたことがありますので、ご覧ください。
(さいたに屋)