【太秦・蛇塚古墳から読み解ける 秦氏による保津川支配の証拠】
古代豪族・秦氏が本拠地とした太秦地域。彼らが保津川(桂川)を支配していたことを示唆する証拠が、蛇塚古墳から読み解けそうです!
- 蛇塚古墳とは?
蛇塚古墳は京都府京都市右京区太秦に位置し、京都府最大級の横穴式石室を有する前方後円墳です。現在は墳丘封土が失われ、石室のみが残っています。
この古墳は、6世紀末から7世紀初頭(古墳時代後期)のものと推定されており、石室の全長は17.8メートルと、奈良県明日香村の石舞台古墳にも匹敵する規模を誇ります。
- 古墳の巨岩と保津川の関係
蛇塚古墳の石室は、チャートという堆積岩で築かれています。興味深いことに、この巨岩の産地は保津峡であるという説があり、保津川を利用して太秦まで巨岩を運搬した可能性が指摘されています。
実際、保津川と清滝川が合流する「落合」という場所には、「書物岩」と呼ばれるチャート層が露出しており、現在でも保津川下りの船から見ることができます。この保津峡のチャー層と蛇塚古墳の巨岩の成分を分析すれば、保津川を介した石材輸送の証拠が得られるかもしれません。
- 保津川開削と秦氏の影響
ここから導き出せる仮説として、秦氏が保津峡を開削し、平安京の造成に貢献したという説が考えられます。
蛇塚古墳が造られた6世紀末から7世紀初頭、桂川(保津川の下流)流域には渡来系豪族である秦氏が勢力を持っていました。特にこの時代に秦氏の氏族の中では秦河勝という人物が有名で、蛇塚古墳の被葬者であると有力視されています。もちろん断定はできていませんが)
蛇塚古墳の巨岩が保津峡から運ばれたとすれば、秦氏が桂川沿いで井堰を築き、農業用の灌漑を発展させ、これにより、桂川流域の土地が肥沃になり、地域の発展に寄与したと推察されます。
また蛇塚古墳の近くには「西高瀬川」という運河が流れており、
江戸時代には桂川から多くの木材が運ばれた運河なのですがが、この西高瀬川が京都の中心部へと流れることを考慮すると、その前身となる水路がすでに存在していた可能性があります。西高瀬川という名称は後世のものですが、その原型となる水路を秦氏が築いたと考えることも十分に可能でしょう。
- 保津峡の巨岩を掘削することは、どの様な意味があるのか?
この問いには、保津峡の水の流れをよくするため、水流の障害物となる出っ張った巨岩を掘削し、取り出し、その巨岩や巨石を水路や建物の基礎、しいては、古墳の石室の積み石となったことが考えられます。
保津峡の水流をよくすることによって、上流地域の水が溜まった湿地地帯が乾き、豊かな田んぼや畑になり、保津峡の上流、つまり丹波地域に大きく発展を付与したことが考えられます。
また、川幅を広げ水路を整備したことにより、川を利用して丹波産の木材を大量に運びやすくなるので、京都や桂川の下流となる淀川流域地域にも運びやすくなるメリットもあったと推察できます。
つまり、蛇塚古墳の巨岩と保津峡のチャート岩盤が同じ成分であることが証明されれば、秦氏が保津川を支配し、当時として高度な土木技術を有していた可能性が裏付けられるでしょう。
これにより、秦氏が保津峡の整備を進め、ひいては平安京の建設においても重要な役割を果たしたことが、より明確になると考えられます。
(さいたにや)