「サラエボの悲劇」のオーストリア皇太子の保津川下り紀行
1914年(大正3年)、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺されたオーストリア帝国帝位継承者
フランツ・フェルディナントは、暗殺される年から遡ること21年前に日本に来日し、その時に保津川下りをされています。
【フランツ・フェルディナント】(1863年 から1914年)
保津川下りの記録は、フランツ・フェルディナント著、
安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記 明治二十六年夏の記録』
講談社学術文庫から発売されています。
1893年(明治26)、8月3日〜24日に日本に滞在し、8日〜14日に京都に滞在され、
保津川下りに来られたのは8月12日のことでした。
記録を少し抜粋致しますと、
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【大宮御所→桂離宮(日記にはなぜか銀閣寺)→老ノ坂→】
まだ人気のない街路を、市外の西の方角に向かった。
一台ごと車夫が三人ついた人力車五十台をつらね、まず集落が点在する野を西北に走った
※人力車五十台に車夫が三人とは、かなりの行列だったものと思われます。
道は、よく手入れされた山道で、峡谷を抜け、幾重にも曲がりくねり、京都西北の丘陵にむかっていた。(この丘陵は老ノ坂の山々と思われます)
かなり長いトンネルを抜けると、ようやく屋根に出、こんどはそこから桂川 ーここでは保津川と呼ばれるー が流れるヒロマジの谷に走り下り、でこぼこの道を行くと一時間、ようやくユマモト(山本)に着き、さらに桂川の急流に達することができた。
※1893年(明治26)には老ノ坂のトンネルと王子橋(メガネ橋)は完成していました。
岸辺には、三艘の舟が待機していた。じつに珍しい形の舟で、長さ六メートル、幅二メートル、薄板と木釘のみで組み立てられており、見たところ、とくべつ耐久力があるとは思えなかった。
※6メートルては短いですね。おそらく12メートルの間違いではないか?また、乗る前に舟を見てかなり心配していたと思われます。
とにかく乗り込もうと一歩進むごとに、ぞっとするほど底板がしなるのである。船頭は四人の屈強な男で、ひとりが舵をとり、ふたりが漕ぎ、さらに、もうひとりは長い竿を用い、岸の岩、川床の岩をやり過ごすという重要な任務を果たしていた。
舟に乗り込んだと思ったら、もうすてきな舟下りが始まっていた。
※舟下りの心配は吹き飛んでしまった様子!
あっというまもなく、最初の急流に乗ってしまい、目も回るような速さで押し流された。川水の流れに応じて、舟はときにしずかなにすすみ、ときに水しぶきに襲われ、眩暈(めまい)がするほどの速さで流され下った。舟の速さがもうこれ以上にはならないだろうと思ったとたん、よりによって前方に花崗岩の巨石がたちはだかった。あわや、か弱き舟は木っ端みじんかと覚悟したとき、なんと舵がきられ、竹竿と手のひらで巨石がらひと突きされ、すんでんのところで舟はかすめ過ぎた。
オーストリアの渓流を舟で下るのもきわめて刺激的であるが、危険であることも確かだ。だから、ここで事故がほとんど起こらないとすれば、ひとえにそれは船頭の腕と力の賜物だろう。※船頭をこのようにして絶賛しています。
舟下りの魅力はいっそう高まったのには、魅力的な風景もあずかって大きかった。舟の速度の緩急に応じて、風景をあるいはゆっくり堪能でき、あるいは一瞥できたからだ。あおあおとした川水が、ときに穏やかに流れて下り、ときに、どよめき、どなり、さざめき、とどろき、立ちはだかる巨岩に襲いかかる。
およそ、一時間半、このうえなく快適な時間が過ぎ去ってしまうと、桂川 ーーーここでは大堰川と呼ばれる ーの谷が大きく開けた。
かなり保津川下りをお気にめされたようです。
フェルディナント皇太子によると、
保津川下りの船は、
「耐久力があるとは思えいない…」
船頭については、
「船頭は四人の屈強な男で…」
舟下りについは、
「およそ、一時間半、このうえなく快適な時間…」
などなど、非常に貴重な記録であると思います。
また、このフェルディナント皇太子の日記を読んでみますと、
フェルディナント皇太子は、詩人を思わすような文章と、日本文化を隅々と堪能される中で、保津川下りについては大絶賛をされ、その文面の中からも非常に好奇心旺盛な一面を伺えます。
(さいたに屋)