渡月橋は、まさに嵐山のシンボルといえる橋です。

映画やテレビドラマや観光雑誌などに多様に用いられています。

では、次にもう一枚の写真を見てくだいさい。

明治初期の嵐山・渡月橋の写真です↓

 

今の渡月橋とは思えないほど、みすぼらしい橋ですよね。

渡月橋の名の由来は、もともと「葛野橋」や「法輪寺橋」と呼ばれていました。鎌倉時代に亀山天皇が、仲秋の名月の晩に大堰川(保津川)で舟遊びされた際、

「くまなき月の渡るに似る

満月が橋の上を渡るように見えることから、「渡月橋」と名付けられました。

そんな渡月橋も室町時代、天龍寺が大変な権勢を誇っていた時は、今の渡月橋より100メートルほど上流にあったそうです。

すなわち、天龍寺の門前橋だったわけです。
一時は朱色の欄干の渡月橋もあったようです

ところが、角倉了以が保津川を開削した1606(慶長11)年に今現在の場所に移されました。

おそらく、度重なる大堰川の氾濫より、今現在の場所の方が良かったのでしょう。

昔の橋はもちろん木造の橋で、もちろん、度重なる洪水で渡月橋は何度も流出しました。

さて、話は変わり、嵐山は昔から風光明媚な名所として知られ、坂本龍馬も何度か訪れていたようです。

嵐山に来た龍馬は和歌を詠んでいます。

「嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉」

と嵐山の紅葉と、おそらく天龍寺の鐘の音を聴きながら詠んだのでしょう。

当時、午後の五時に天龍寺の鐘がなり、その鐘の合図が筏を流していた西高瀬川の水門が閉められたようなので、
龍馬が詠んだ時間は、午後の五時だったのでしょう。

そして、この写真の渡月橋を龍馬も渡ったかもしれませんが、
残念ながら、明治初期の渡月橋写真です。

記録では、明治の最初に渡月橋は流出した記録が残っています。

龍馬は幕末に亡くなっているので、この渡月橋を渡ることは出来ないですね。

しかし、龍馬は嵐山の桜や紅葉をこよなく愛していたようで、幾度か嵐山に訪れています。

もしかしたら、龍馬は保津川下りにもしたかもしれません。
亀岡から京都に出ようと思えば、標高200メートルの老ノ坂(峠道)を越えなければなりません。

合理的な龍馬こと、きっと船頭に船頭に声をかけて乗せてもらっていたかもしれません。

あくまでも、僕の想像ですが……

ちなみに、龍馬がこの詩を読んだ時期は、暗殺直前の11月と思われますが、

時代の暦は、陰暦なので暗殺の年ではなく、年表調を調べてみると、1865年の9月ごろと思われます。

この時、龍馬は姉乙女に「お龍」(後の龍馬の妻)を紹介している手紙を9月に書いています。

おそらく、龍馬とお龍とが嵐山にデートした時の詩ではなかったか?

と僕は勝手に思っています。

 

(若い時のお龍の写真といわれています。)

まあ、妄想ですが…(^^;)

さいたに屋