保津川下りの船は「高瀬舟(たかせふね)」といいます。

僕たち、船頭たちが保津川下りの船の名称を説明するとき…

これが、なかなか説明しにくいんです(^^;)

    【高瀬舟(木造船)】

 文学に詳しい人なら森鴎外の『高瀬舟』で、ご存知の方もおられるでしょうが、

僕ら船頭が、

「保津川下りの船のタイプは、高瀬舟なんです。」

と言っても、

だいたいのお客さんは、

「タ・カ・セ…?なにそれ…?」

というような感じで、

なかなか理解してもらえません。

「高瀬舟」は、江戸時代の船の百科事典『和漢船用集』において

「船首、船尾が高く上がり、喫水線が浅い船底の広い船箱である。」

というようなことを胆略的説明しても…

 

ちょっと、難しいですよね…(><;)

 

そこで、今日は「高瀬舟」について書きたいと思います。

 

まず、「高瀬舟」をウィキペディアで検索すると…

「高瀬舟は河川や浅海を航行するたまの船底の平ら木造船である。

室町時代末期頃の岡山県の主要な河川(吉井川、高梁川、旭川_(岡山県)等)で

使用されはじめ、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。」

 

と、このように書かれていますが、

これが、ちょっと間違いなんです!

 

高瀬舟は、遅くとも平安時代には使用されていました。

その証拠に平安時代の和歌に次のような歌があります。

 

高瀬舟 しぶくばかりに 紅葉ばの 

       ながれてくだる 大井川かな

                 (新古556)

                 藤原家経(992年~1058年)

【通釈】高瀬舟がとどこおってしまうほど、大井川には紅葉が川面を満たして流れ下ってゆくよ。

という和歌があります。

(大井川とは、嵐山の大堰川で、つまり保津川です。もしかしたら、平安時代版の保津川下りかもしれません。)

また、『日本三代実録』元慶8年(884)に

「令近江(おうみ)丹波(たんば)両国、各造高瀬舟三艘(そう)(近江・丹波の両国をして各高瀬舟三艘を造らしむ)、

其二艘長三丈一尺広五尺、二艘長二丈一尺広五尺、二艘長二丈広三尺、送神泉苑(神泉苑(しんせんえん)に送る)」

とも記録され、もしかしたら、この舟が保津川を下ったかもしれません。

(現地(丹波)で製造した舟を陸で運ぶというのは、ちょっと大変です…)

『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(931~938ころ)には、

「艇小而深者曰(たかせ)」(艇(てい)という記録もあります。

 

 ウィキぺディアで述べられているように、岡山県で物資を運ぶ舟は盛んにおこなわれており、

     【岡山県・吉井川の高瀬舟】

 吉井川で流されていた高瀬舟が保津川下りの高瀬舟の起源といわれています。

 

   【角倉了以(すみのくらりょうい)】

慶長9年(1604)に了以が美作・備前に流れる吉井川(和気川)に往き来る高瀬舟を

見て、保津川にも舟を流せると考えたのが切っ掛けで、

 

【林羅山著 河道主事嵯峨吉田了以碑銘 (大悲閣千光寺)】

上の写真の石碑は、角倉了以の業績を記した碑に詳しく書かれています。

了以が

「凡そ(おおよそ)百川、皆以って舟を通すべし」

と考え保津川(大堰川)を開削しようと思いついたことが、

慶長11年(1606)に保津川の舟運を疎通させることとなります、

おおかた荷物船とされていますが、記録では、

元禄7年(1694)に刊行された『西鶴織留』の一節に

「保津川のながれは、丹波亀山につづきて、嵯峨ままで二里あまりの所、

近代切ぬきの早川、是を自然と乗覚て、岩角よけて滝をおとし、ひだりは、

愛宕、右は老の坂、此山間のの詠め、松嶋をちかふして見るぞかし。」

また、『丹波史』には、

「保津ノ浜ヨリハ人ヲモ乗セ下ス」とあり「嵯峨マテ一人一升ナリ」

とありますので、人が乗客していた記録も残っています。

 保津川の木造高瀬舟は、1972年(昭和47)に

木造船からFRP船へと変更していき、しだいに姿を消していきます。

しかし、2009年に亀岡の市民グル-プ

「保津川の世界遺産をめざす会」により40年ぶりに復活し、

保津川を下りました。

今後、この高瀬舟に活躍してもらいたいものです。

どうですか?

元祖高瀬舟で、下ってみませんか?

 (さいたに屋)