昔、オーストリアの皇太子も保津川下りを楽しまれました。
まだまだ、保津川の紅葉は、散り始めたとはいえ綺麗です!
もう一度言います!
まだまだ、保津川の紅葉は綺麗!
そして、京都の紅葉も綺麗です( ´ ▽ ` )ノ
さてさて、
今日も外国の王室が保津川下りをされたことをご紹介します(^O^)/
フランツ・フェルナンド
当時オーストリア皇太子
1893年(明治26)、8月3日〜24日に日本に滞在し、8日〜14日に京都に滞在され、
保津川下りに来られたのは8月12日のことでした。
随行したのは、宮内省式部次長三宮義胤や海軍大佐黒岡帯刀などの5名。(『明治天皇記』第8、p280)
接待役の彼らは、イギリスやフランスなどに留学経験があるものばかりでした。
このフェルナンド皇太子の保津川下りの記録は、フランツ・フェルナンド著、安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記 明治二十六年夏の記録』講談社学術文庫から発売されています。
【大宮御所→桂離宮(日記にはなぜか銀閣寺)→老ノ坂→】
まだ人気のない街路を、市外の西の方角に向かった。
一台ごと車夫が三人ついた人力車五十台をつらね、まず集落が点在する野を西北に走った
※人力車五十台に車夫が三人とは、かなりの行列だったものと思われます。
道は、よく手入れされた山道で、峡谷を抜け、幾重にも曲がりくねり、京都西北の丘陵にむかっていた。(この丘陵は老ノ坂の山々と思われます)
かなり長いトンネルを抜けると、ようやく屋根に出、こんどはそこから桂川 ーここでは保津川と呼ばれるー が流れるヒロマジの谷に走り下り、でこぼこの道を行くと一時間、ようやくユマモト(山本)に着き、さらに桂川の急流に達することができた。
※1893年(明治26)には老ノ坂のトンネルと王子橋(メガネ橋)は完成していました。
岸辺には、三艘の舟が待機していた。じつに珍しい形の舟で、長さ六メートル、幅二メートル、薄板と木釘のみで組み立てられており、見たところ、とくべつ耐久力があるとは思えなかった。
※6メートルては短いですね。おそらく12メートルの間違いではないか?また、乗る前に舟を見てかなり心配していたと思われます。
とにかく乗り込もうと一歩進むごとに、ぞっとするほど底板がしなるのである。船頭は四人の屈強な男で、ひとりが舵をとり、ふたりが漕ぎ、さらに、もうひとりは長い竿を用い、岸の岩、川床の岩をやり過ごすという重要な任務を果たしていた。
舟に乗り込んだと思ったら、もうすてきな舟下りが始まっていた。
※舟下りの心配は吹き飛んでしまった様子!
あっというまもなく、最初の急流に乗ってしまい、目も回るような速さで押し流された。川水の流れに応じて、舟はときにしずかなにすすみ、ときに水しぶきに襲われ、眩暈(めまい)がするほどの速さで流され下った。舟の速さがもうこれ以上にはならないだろうと思ったとたん、よりによって前方に花崗岩の巨石がたちはだかった。あわや、か弱き舟は木っ端みじんかと覚悟したとき、なんと舵がきられ、竹竿と手のひらで巨石がらひと突きされ、すんでんのところで舟はかすめ過ぎた。
オーストリアの渓流を舟で下るのもきわめて刺激的であるが、危険であることも確かだ。だから、ここで事故がほとんど起こらないとすれば、ひとえにそれは船頭の腕と力の賜物だろう。※船頭をこのようにして絶賛しています。
およそ、一時間半、このうえなく快適な時間が過ぎ去ってしまうと、桂川 ーここでは大堰川と呼ばれる ーの谷が大きく開けた。
※かなり保津川下りをお気にめされたのでした。
このオーストリア皇太子フランツ・フェルナンドは、1914年(大正3)、サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)で暗殺されるます(サラエボ事件)。これがきっかけで第一次世界大戦が引き起こります。
しかし、この当時、世界でも最も有名で影響力がある人物が東洋の端である日本、はたまた保津川下りをしっかり記録されているというのは非常に貴重であり、
本当に保津川下りが日本のみならず、強いては世界に代表川下りということを歴史が証明してくれているのです!
それでは、まだまだ散らぬ紅葉を祈り、また、悠久の保津川の歴史を味わいながら川下りを楽しんで下さい。
(さいたに屋)