江戸時代前期の儒学者に伊藤仁斎という人物がいる。
仁斎は京都の堀川に「古義堂」という私塾を創設した市井の学者で、
林家の朱子学に異を唱え、独自の儒学理論を構築し、その後の旧儒学批判の
基礎となる古義学派(堀川学派)の祖となった人物。

この伊藤仁斎が角倉一族の人間であることを、知る人は少ないのではないでしょうか。

伊藤仁斎は寛永4年7月20日(1627年8月30日)京都で誕生した。

保津川を開削した角倉了以の姪の子(那倍の子)に当たり、了以の子素庵にとっては従妹の子に当たる。
1662年 京都の堀川に古義堂を開く。市井の儒学者である。
 宝永2年3月12日(1705年4月5日) 死没。

仁斎は、徳川幕府の官学であった林家が論ずる「論語」「孟子」「中国古典」を含む「朱子学」の
体系的な解釈学問に対して異論を唱え、仁義について独自の論理を構築し「論語」を読み込むことで
新しい学問的境地を開いた儒学者で、終生いずれの藩にも仕官せず、町の学者として
その生涯を全うした。(1705年3月12日没)

1662年に京都堀川に「古義堂」という私塾を開き、全国各地から集まった門弟たちを指導した。
直接指導したその数、45年間で延べ3000人ともいわれ、この塾は仁斎死後も明治後期の1905年まで続いた。

仁斎は俗説となってきた天道、地道といった高邁で客観的な宇宙論を説く朱子学に疑問を呈し、
論語や孟子の原典を読み込み、その言葉が本来秘める真意を把握することに努めた。

理論だけでなく「人道」つまり人として正しく生きる為に学問が必要との思想から
日常生活の上で、主観的に実践する学問の重要性を説いた。

また、孟子の教えの核心部は「人間にとって最も大切なことは、学問と教育によって善へ導ける」
ということであり、階層の隔てなく「学問と教育の重要性」を強調した。

「人間は善に生きることが本来困難であり、誘惑の道が常にあることを自覚し、学問、勉強を怠ると堕落する」
と説く、実践主義と自由な校風が町衆に支持され、塾の門弟はどんどん増えていった。

また、仁斎は古義堂と同時に「同志会」も創設している。
俗説として流行している、禅学や老荘思想とごっちゃ混ぜにした、非儒学的な思想を介入させた
「儒学の日本化」についた研究する集まりで、月に2~3回例会を開いている。

例会ではお茶とお菓子を各自が持ち寄り、仁斎がまとめ役となり、研究者が指南役を輪番制で務めていく。

基本を音読として全員で唱和し、刷り込んでいく。
更に、指南役に当たっている者は論題を事前に作成をし、問題提起をしながら、参加者が回答する方式で
進めていく。指南役はその議論から感じたところをレポートにまとめ提出する決まりとなっていた。

「教わる者も、教える側に回ることで学ぶ」という実践授業も行っていたのだ。

その中から多くの優秀な門人を数多く配し、古義堂の学問は全国へ広がっていった。

後に流行する荻生徂徠の護国学派や石田梅岩の心学も、仁斎の思想の影響を受け誕生したともいわれる。
また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助は漢学を仁斎から学んでいたといわれる。

日本思想史にその足跡を大きく残した市井の学者・伊藤仁斎が、
角倉家から出ているとこに私は注目したい。

了以の子、素庵は日本儒学の祖といわれる藤原惺窩の門下生だった。
その友人に江戸幕府お抱えに儒学者で、朱子学の祖・林羅山がいる。

後に、その羅山が唱えた朱子学に異をとなえる仁斎だが、晩年、学者としての活動を
再開した素庵の影響を受けたことは容易に想像でき、少年期から儒学の学問的風土の
中で育ったといえる。

素庵が惺窩に頼んで作成した「舟中規約」の思想にも、強い刺激を受けていたのではないか。

了以、素庵親子の事業から生まれた思想が、その後、仁斎により
さらに実践的思想にまで昇華し、日本思想史に大きな影響を与えている。

産業、技術の分野だけでなく、道徳、生き方という思想の分野まで
近代日本に影響を与えた角倉一族の活躍。

明治維新後の歴史から封印された角倉一族の検証の必要性を強く感じずにはいられない。

仁斎の墓は、了以たち角倉一族と同じ小倉山・二尊院に眠っている。