今日は保津川下りが休みだったので、ガレリアかめおかで行われた「本能寺の変」を題材としたパネルディスカッションに行ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

【パネリスト】

山本 雅和さん  ((財)京都市埋蔵文化財研究所)

仁木 宏さん   (大阪市立大学院文学研究科教授

福島 克彦さん  (城郭談話会会員)

【コーディネーター】

黒川 孝宏さん  (亀岡市文化資料館館長

ディスカッソンでは、考古学の観点・当時の都市京都事情や山陰街道の事情などが専門的に語られました。

会場も大勢の人が来られており、ほぼ満員。

質疑応答も熱いディスカッションでありました。

山本 雅和さんからは、「本能寺の変」発掘調査から

2007から本能寺跡地の発掘が行れ、その事例を報告してもらいました。

発掘された瓦などは多くの焼けたあとがあり、定説通りに本能寺が焼かれたことを証明さたとされます。

また、発掘された陶器で16世紀末に埋められた整地であり、周囲が堀で囲まれ石垣も積まれていたことがわかりました。

面白い話で、ある有名な「本能寺の変」をあつかった歴史小説で、本能寺と南蛮寺が地下でつながって逃げ穴があったという説がありましたが、

本能寺と南蛮寺の間には西洞院川があり、当時の土木技術では川の下には穴を通す技術がないので不可能であると語られました。

 

仁木 宏さんからは、

なぜ、織田信長が本能寺に宿泊しなけばならかったかを述べられ、

京都は昔から天皇の都であり、そこはつまり「平和」空間。

その尊い天皇がおられるところに城は不要という価値観があったとされます。

おそらく信長も京都に城を築城したかったはずなのですが、その「掟」というべき規制概念を信長は克服することができず、

京都でもまだ、堀などを持つ日蓮宗派の寺院に泊まるしかなかった。

それが「本能寺の変」の要因のひとつともいえます。

 

福島 克彦さんからは、

明智光秀軍が、丹波亀山城から京都本能寺までの道筋・山陰道を調査され、

中世の時代、山陰道というのは山陽道(西国街道)よりも主流の道路であり、昔から桂川に桂橋が架けられていたという事例を述べられ、

西国街道の方は橋はなく、川を舟で渡っていました。

そして、信長は、戦のために道路整備を推し進め、馬や兵隊が大軍で移動できるように整備したことが、光秀の電光石火の進軍につながったと述べられました。

 

「本能寺の変」は、日本の歴史至上で最高のミステリーといわれていますが、

このよな歴史的背景を調べていくことが、何よりその謎を解く鍵であるはずです。

 

わたくし、さいたに屋もこのブログを通して、歴史研究・郷土研究をしてまいりたいと思います。

 

 

(byさいたに屋)