「保津峡開削は、わしの子供の頃からの夢だった」

保津川の開削を決意した了以は周囲の者にそう語ったという。

了以にとって保津川開削は悲願だった。

当時、保津峡は何人たりとも寄せ付けない自然の要害で知られ、開削工事の発想はあっても
実際に工事を実行するなど、常人の考え及ぶものではなかった。

しかし、了以はそんな保津川の開削に夢を描き、実行に移していく

この強い信念は、彼が育った「嵯峨嵐山」という地に起因するところが大きい。

了以が少年時代を過ごした嵯峨嵐山は、目前に奥深い丹波山地の水を集め流れ込む保津川(大堰川)、
東に広沢池、西に愛宕山麓を臨む幽邃の地で、平安初期から都人の行楽・隠居の地として
社寺旧跡の多い閑寂な土地柄だった。
その反面、古くは帰化人の秦氏が堰をつくり、洪水を防ぐとともに荒地にかんがい用水を引き込み、
緑地と水田を発達させた渡来の技術が施された先進的な地でもあった。

この秦氏の堰造りという大工事と排水路整備は伝説となり、嵐山の人々の心に深く浸透し、
誰もがその話を聞いて育った。
また、川上流の丹波国も昔、一大湖水で、松尾の神様が鍬で山を切り、岩を砕いて
湖水を山城国に流し国を誕生させたという伝説話も浸透していた。
この伝説により生まれた川が保津川である。

了以もおそらくこれらの伝説を聞いて育ち、丹波とその国へつながる保津川に、
強い好奇心と冒険心を涵養して育っていたのだろう。

了以には他に、侶庵、宗恂という兄弟がいた。
他の兄弟たちが父・宗桂の血統を受け継ぎ、医術や学問に興味を持って育ったのとは逆に、
了以少年は学者肌な家風にあわず、家を飛び出しては野や山,川など外遊びを好んだ。
名医との誉れ高い父とその父を慕い訪れる人々も格式ばった公家や知識人にも馴染めず、
堅苦しい作法も性にあわないと感じていた。

ある日、了以は遊びに出たまま、夕刻になっても帰らなかった。
家人たちは一家総出で探しまわる。
「神隠しにあったのでは?」「もしかしたら、愛宕山の天狗にさらわれたのでは?」と
口々に話すものだから、騒動は益々大きくなっていった。

すると決まって、嵯峨鳥居元の愛宕一の鳥居からひょっこり姿を現したり、
小倉山の山中から下山してきたところを発見されるのが常だった。

「どこに行っていたのか?」と問いただす家人たちに了以は「それがまったく覚えていないや~」
「どこか山の中をさまよっていた様な気がする」などという曖昧な返事を繰り返すばかり。
そして翌日は、ぼんやり気が抜けたような表情で、何もせずにゴロゴロしていた。
その様を見た家人は「やっぱり、あいつは神隠しにあったのだ、いや、天狗にさらわれた」
という話に、信ぴょう性を持たせるに十分な不思議で奇怪な雰囲気を醸し出していたという。

ぼ~っとっ天井を眺めながら昨日のことを思い出していた。

その日、家の前を流れる保津川(大堰川)の上流から、なんともまぶしい光が射す風景に気がついた。

「この光を辿り、深い山々に囲まれた川岸を上って行けば、どんな世界が広がっているか?」
好奇心が胸に沸きあがる。

とはいえ、保津川岸は人が歩ける道などなく、断崖絶壁の足場もないような危険な
岩場を進んでいかねばならなかった。

当時、保津峡は「大人でも遡れない」「行くと命がないほどの危険なところ」と
大人でも恐る場所だった。
大人たちがそういえばそういうほど「行ってみたい!」
「丹波の国を見てみたい!」という気持ちに駆り立てられた。

了以少年は、その日から保津峡冒険への挑戦を始めた。

途中、前途を遮られれ、引き返す時も多く、また支流の清滝川を遡ることもあった。
愛宕一の鳥居脇で見つかった時などはおそらく、保津峡をさかのぼり、
途中で合流する清滝川をさかのぼり、愛宕修験の水垢離場であった神秘の里・清滝に入ったのだろう。

このように嵯峨嵐山という、神秘性を持つ地域や雄大な自然環境が、子供心の冒険心と挑戦心を育み、
先人の伝説と相まって、後に「この川を制してみたい!」という激しい衝動と信念を涵養し
保津川開削という一大事業を成功へと導く、動機の精神的基盤となっていたといえる。