安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商・角倉了以。
その技術力と財力、そしてスケールの大きなビジネスセンスは、
当時活躍していた他の豪商の中でも際立つ存在である。

だが、了以の活躍が世に注目され出すのは、彼が50歳になってからという晩年である。

では、それまでの了以はどのような生活、また人生を歩んでいたのかは、あまり知られていない。
了以はどこに生まれ、どんな環境で育ったのか?

稀代の実業家・角倉了以が誕生までの土壌と足跡を追いたいと思う。

角倉了以は天文22年(1554年)に京都の嵯峨に生まれる。
世は室町幕府末期で、各地で群雄割拠する殺伐した時代。
日本はまさに中世の終焉から近世が始まろうとする頃。

了以の本姓は吉田で、幼名を与七といい、光好とも称したが後に剃髪して了以と名乗た。

父吉田宗桂は室町幕府お抱えの有名な医師で、母は中村姓であること以外わかっていない。
宗桂は遣明団の一員として明に渡り、当時、最先端の医療知識を持つ医術者であったが、
その一方で土倉(金融業や質業、倉庫業など)も営んでいた。
宗桂には了以のほかに侶庵と宗恂という兄弟がいた。
系図では了以を長男と記するものもあるが、宗桂43歳の子である了以が長男である可能性は低く、次男説も強い。

了以長男説は、後に角倉の家督継ぎ、有名になった了以を中心に家系図作られたものと思われる。

吉田一族は近江国愛知郡日枝村の吉田の庄出身で、祖先は宇多源氏・佐々木家で、
源平合戦で活躍した佐々木定綱、盛綱の6番目の弟六郎厳秀が当地に住み着いて、
吉田性を名乗るようになったといわれる。

室町時代に入り、厳秀から9代目にあたる徳春が、足利義満に仕えるため、
吉田庄を離れ、京都へ移り住んだ。
そのころから医術者として迎られ、しばらくして嵯峨に居を構えた。
嵯峨吉田家のおこりは、この徳春から始まってといわれている。

では、角倉という土倉の事業はいつからはじめられたのか?

土倉業は、了以の祖父宗忠の父宗臨が興したとされ、宗臨の頃に「角倉」の屋号が記録に残っている。

角倉の商いは土倉だけではなく、酒造、帯、医薬などのあらゆる分野の品物を扱っていた。
吉田の一族の者は大なり小なり、この土倉をそれぞれが興し、一族協力体制のもと、商いの幅を広げてきた。

一族での経営は、当時、混乱する世情を背景に公家や武士への貸付額が増えていくリスクを一族で分け合う、
極めて合理的な思考に基づいている。

吉田家の土倉集団を角倉という屋号で呼び、本拠を大覚寺境内で営んだ。

この土倉角倉を大きく発展させたのが祖父宗忠で、その繁栄は孫の栄可へと引き継がれる。

了以が、歳の離れた従兄弟である栄可のもとに預けられたのが14歳の時。
さらに栄可の娘・君と結婚し、了以は名実ともに栄可の片腕として
角倉土倉事業を手伝い、商売のノウハウを身につけていくことになる。