時は慶長19年、京都・鴨川の水を引き、洛中の二条から伏見までの舟運疎通工事を完成したその男は、
完成祝いにわく幕府の役人や工事関係者、見物に来た京都の町衆を見渡しながら、静かにつぶやいた。

「すぐにこの運河を誰が造ったなどは忘れてしまうやろう。それでいい。」
「この運河で便利になり潤う人々が増えれば、それで充分、本望や。」 

あれから約400年、その男の言葉通り、彼の功績を知り、語る京都人は少ない。

この男とは?・・・角倉了以。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商だ。
そして、我々保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在なのだ。

先日、フランスで発売された世界的に権威があるといわれる観光ガイドブック・ミシュラングリーンガイドにも
「一つ☆」で掲載されるなど、観光川下りとして世界的に有名な保津川下りだが、
この舟運を開いたのも角倉了以であることを知る人も少ない。

近世の江戸初期に、私財と投じて丹波と京都嵯峨、また二条と伏見の産業水路を開削し、
京都~大坂間の水運流通路を開き、京都はもとより関西経済や文化の発展に大きく貢献したはずの
角倉了以の功績は、日本近代史の片隅に押しやられ、正当に評価されているとは言い難い。

だが、了以の事業を検証する研究者の見方は大きく異なる。
元東京大学の五味文彦教授は「中世から近世にかけて商業のシステムをつくりあげた人物」だといい、
大阪大学の山崎正和教授に至っては「日本の企業家精神をきづいた、いわば日本近代化の元祖」
とまで言わしめているほどだ。
それはただの商人像ではなく、また優れた技術者像だけではない。

実業家として近代的経営の思想からシステムまでつくりあげた人物として高い評価を示している。

了以から続く角倉一族が近世日本の発展に与えた影響はけして小さくない。

歴史の片隅に追いやれ、語られることなく忘れ去られようとする了以の功績を、
今一度、掘り起こし検証、研究することで、その価値を正当に、
現代日本へ問いかけることは、了以の遺産で生きる
我々保津川下りに従事する者の使命だと感じる。

これまで続けてきた「江戸近世における角倉一族の文化力と技術力の研究」をもとに
角倉了以、そして息子素庵から続く一族の功績をこれから明らかにしていきたい。