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船頭だより
歴史ブログ

角倉了以没400年記念企画「了以伝」・其の参 「土倉業としての角倉家」

了以の父・宗桂は二度、明に渡り医学を極めた、京の都に聞こえた名医だったが、
生来、医師の家風が肌に合わないと感じていた了以は、成人すると
吉田(角倉)家のもう一つの家業であった土倉の仕事に関わるようになる。
父も可愛げのない無骨な性格でわんぱく小僧だった了以には医師を継がせる気はなく、
土倉をやらせる心つもりだったようだ。

ここで土倉という事業について説明する必要があるだろう。
土倉とは、今でいうと金融業で、質屋である。
質物を保管する蔵を持っていたところからその名が付いた。
お金の貸主は貧しい農民庶民から武士、公家までの広い範囲におよび、
当時の足利幕府の経済基盤を左右するほどの力があった。
また、応仁の乱以後、幕府の租税が減少したため、土倉と酒屋からの課税収入が重要になり、
幕府末期は将軍家の生計も支えるほどにまでなっていた。
まさに室町幕府の維持に欠かせない存在にまで影響力を増していた。
さらに土倉はたいてい酒屋も兼業しており、その酒の製造販売は京都でも相当の数量に迄び、
その売上を活用して金融業の資金としていた。

了以が住んでいた嵯峨では当時16軒もの土倉があり、天龍寺から臨川寺付近に多く軒を連ねていた。
角倉(吉田家)の土倉は嵯峨の大覚寺の境内で営まれていた。
創業は了以の祖父・宗忠だといわれる。寺は土倉の賃貸料を徴収し、寺の維持に当てていた。

日本は南北朝の時代から、物々交換経済から貨幣経済に移行する時期に入り、
自給自足していた農民も金銭の必要に迫られることが多くなり、田畑を抵当に入れ、
土倉からお金を借りなければならなくなってきた。
また武家も物価高や政治動乱で資金が不足し、武具など私財を質入れる者も増えた。
さらに社寺も荘園制度の崩壊から年貢が上がらず困窮する事態が起こっていた。

田畑を失い作物も収穫できなくなった農民は生活の困窮に陥り、集団化して
一揆を起こす事件が増えだす。暴徒と化した農民集団は土倉に借金を棒引きするよう、
幕府に迫り、徳政令を無理やり出させ、過激な者は土倉を襲撃する武力行使にも出たりもしていた。

幕府にはこの一揆を鎮圧する力はすでになく、また武士も自分の借財も帳消しにできるので、
一揆をけしかける者も少なくなかった。
その結果、多くの土層業者が多大な損害を受け、商売を廃業するところも出てきた。
土層からの課税を頼りにする幕府の財政も打撃を受け、衰退の一途をたどることとなる。

土倉業者は自身で店を防衛する必要性に迫られていた。
了以の父、宗忠は防衛策として、嵯峨で信仰を集めていた愛宕神社との関係強化を図る。、
進んで寄進や灯明費を負担するなど神社との関係を深めることで、徳政令から除外される特別待遇を得る策だ。

当時の嵯峨では、いかに愛宕神社の山岳信仰は畏怖され、神威が強かったということがわかる。
神社も強力なスポンサーとなる角倉家との関係強化は願ってもないことだった。

こうして愛宕神社の威光を背景に、室町末期の動乱を生き抜いた角倉家の土倉業は
大覚寺境内だけでとどまらず、次々に一族系列の店舗を増やし、嵯峨で独占的な勢力となる。
吉田本家宗忠の子・与左衛門からその子の栄可へと引き継がれる。
そして、了以は、この栄可8従兄弟)の娘と結婚することで、
土倉角倉の中心的人物に成長し、歴史の表舞台に姿を現すのである。

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