父了以亡き後、角倉家の家督を継い素庵は、幕府より淀川通船輸送管理者や
木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど
隆々たる事業展開を遂げましたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病
ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになりました。
素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲します。
当時、ライ病は、一族のケガレとして乞食として放浪の旅 に出るか、
生涯、物乞いの生活を送るか、どちらかの選択せざるおえないほどの差別と偏見を受けていました。
素庵の息子たちは父の心中を察し、嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲させたのです。
その後、追い打ちをかけるように素庵に不運が襲います。素庵は光を失ったのです。
それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 『文章達徳録』の増補と『本朝文粋』の校訂を続行するなど
、いのち尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだのです。
しかし、当時、ライ者に直接関わることは、世間の掟に背くことであり、世間から見捨てられた身である
素庵に書籍の出版を協力する者はありませんでした。

そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した『本朝文粋』を古活字版で刊行することで、
素庵の大恩に報いることを決心したのでした。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意でした。
事実、宗達はこれを期に筆を置く覚悟があったといいます。
そして素庵が校訂した『本朝文粋』は寛永七年(1630)に出版されました。

しかし、運命は思わぬ方向へ宗達を導きました。
これを読んだ後水尾院が絶賛し、その刊行に対する褒賞として、宗達に「法橋位」を贈ったのです。
宗達は慣例に従い、「楊梅図」ほか屏風絵 三双を描き、後水尾院の仙洞御所、
東福門院の女院御所、明正天皇の禁裏御所に進上しました。
すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなったのです。
その後、宗達は寛永九年から十年にかけて「風神雷神図屏風」を描き、
益田家本「伊勢物語図色 紙」三十六図を描くなど、、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから
注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟きました。
 
素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき 
嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられました。
そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守ったのです。