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保津川の紅葉も真っ只中!

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1881年(明治14)、同じ11月にイギリス王室の皇太子が二人保津川下りを楽しまれています。
(アルバート・ヴィクター 満17歳)(ジョージ 満16歳)

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その一人は、後のイギリスの国王となるジョージ5世です。

ちなみに、京都で接待をつとめたのは当時京都知事をしていた北垣国道で、

20121126-225825.jpg【京都知事北垣国道】
通訳をつとめたのは幕末から明治初期のイギリス外交官をしていたアーネスト・サトウでした。

20121126-231302.jpg【アーネスト・サトウ】
このイギリス皇太子の京都旅行は、11月5日から9日の5日間で、保津川下りをされたのは7日で、京都七条大宮から人力車で山陰街道を通り亀岡まで来られ保津川下りをされました。

ちなみに、ジョージ5世は、この日本旅行で、なんと自分の体に刺青を入れました。当時、日本の刺青の技術は世界一だったそうです。

1921年(大正10)、イギリスを外遊された昭和天皇(当時、裕仁親王)に、日本の刺青のエピソードを語られたとか…
おそらく、昭和天皇は、日本に刺青などというのがあることを知らなかったなでは…おそらく困惑されたことでしょう(笑)

1922年(大正11)のエドワード皇太子が日本に来られた時も、エドワード皇太子は刺青を入れたかったようですが、スケジュールがあわなかったので願いは叶わなかったようです。(日本が近代化を推し進めたことで刺青が野蛮な風潮として確立していて、日本の恥となるので、国賓に紹介されなくなったという説もある…)

20121126-233050.jpg【大正11年 エドワード皇太子を迎えられる昭和天皇(当時、裕仁親王)】

さて、話しは1881年(明治14)、11月7日に戻ります。
皇太子達の秘書であったジョン・ドルトンが『軍艦バッカンテの巡航』という著に詳しく保津川下りを記録されているので抜粋します。

午前9時に、長い人力車の列を連ね、桂川の急流に向けて出発した。

(桂川を船で渡ったという記述がないので、当時桂川には渡月橋しかないので、おそらく一行は渡月橋を渡ったと思われる。)

我々は、ガタガタと人力車の音を立てながら村を通り過ぎ、それから坂はだんだん険しくなってきた。(おそらく、老ノ坂峠あたり)

そこで、全員人力車から降りて歩いた。当然、景色を楽しみながらである。
(この時、まだ老ノ坂には、松風洞トンネルも「めがね橋(王子橋)」も完成していません。

12時30分に山本についた

20121127-002719.jpg(当時の山本浜の風景)
川につくと、待機してあった平底の船に人力車が載せられるまで、我々は待っていた。人力車は、その車夫も含めて6艘の船に乗った。その船は長く、船底は真っ平らで船尾はほぼ四角だった。側壁は船底からだいたい3フィート(約91センチメートル)

2時間の間、その急流を下った。その急流は、高い木で覆われた渓谷の間を曲がりくねって走っており、いっぱい日光の中、紅葉と光のコントラストが溢れていた。岩の周りには水が渦巻き、流れが突出しており、何度も前方に障害物が現れた。しかし、船首に一人の男たちが上手に竿を使いながら船を操って、障害物をこえて行った。ある場所では、大きな水しぶきが船壁を超えて入ってきた。その場所は2つの岩の間が非常に狭く、船の船幅より少し大きいくらいだった。急流や一風変わった水の流れなど、とてもうきうきする場所がいくつかあった。

ここでも我々は船頭が船を上流に向かって綱で引っ張っているのをみた。彼らは肩にロープを担いで引っ張りながら、岸壁に沿って歩いた。その岩壁は大きな岩から大きな竹が生えていた(この竹は、綱はじきだと思われます。

20121127-003119.jpg(2007年〜2008年に曳舟再現の写真)

しかし、彼らは、スムーズに岩壁を走っていったようだった。

急流の終着点である嵐山につき、丘に面した橋を見渡せる三軒家という茶屋の上でランチを取った。
(嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」という茶屋の古写真が多数残っています。三軒茶屋の東西両側の保津川岸には、長い屋根付きの床が設けられ、嵐山を鑑賞出来ました。)

さて、この時の保津川下りの費用ですが、
13艘予定されていましたが、実際は11艘で1艘4円。2艘キャンセルでキャンセル料1艘80銭であったとか…

(当時の1円の価値は、現在に換算するのが難しいので、
明治22年の村長の給料がだいたい1ヶ月6円ぐらいだったといいます。)

やはり当時、保津川下りはかなり高価な乗り物の遊びであったようです。

このように、昔の保津川下り歴史を克明に記録されているのは非常に貴重なもので、しかも、京都鉄道(山陰線)が開通する以前のことです。

明治初期に、これだけの国賓が保津川下りをされたということは、もうこの時代には観光としての保津川下りが世に定着していた証拠であり、しかも、海外からこのような記述が見つかるというのは非常におもしろいと思います。

(さいたに屋)