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船頭だより
歴史ブログ

嵯峨(保津川下り着船場)ゆかりの偉人シリーズ ① 【一休宗純】

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保津川下りのゴールである渡月橋の上流あたりの写真です。

写真に表記している通り、
左側が右京区嵯峨。
右側が西京区嵐山。
なんです。

保津川下りの着船場は、写真の左側になるので、
ゴールは嵯峨ということになります。

つまり、正確にいうと!
保津川下りは、亀岡〜嵐山(^O^)/
というのは間違いで、
保津川下りのゴールは、右京区嵯峨なんです!

あ、なんか、話しが長くなりました、すいません(#^.^#)

さて、本題に入ります(#^.^#)

嵯峨は、嵯峨野ともいい、嵐山の知名度に押され気味ですが、
昔は、時の天皇の離宮があったり、貴族の避暑地であったりと、平安の時代から風光明媚な行楽地として現在にいたります。

さて、今日は嵯峨ゆかりの人物を紹介したいと思います。

その人は、

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一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
皆さん、ご存知の
一休さんです。

一休さんが、生まれたのは嵯峨だといわれ、なんと後小松天皇のご落胤だといわれています。
母親が南朝の血をひいていたために、宮中ではなく嵯峨の民家で生まれたそうなのです。

(嵯峨は、南北朝時代に欠かすことができない地。南朝のことを大覚寺統ともいいます。)

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(大覚寺)

一休さんは、南朝復活を考える者からしたら、後に天皇に立てる人物だったので、足利幕府が生まれてすぐに安国寺(山城国)に入れさせた…というのはアニメでも詳しく描かれています。

一休さんが幼少の時に過ごした安国寺(山城国)は廃寺となり現在はありません。
よく京都府綾部市の安国寺と混同されますが、この安国寺とは違い、現在の四条大宮あたりにあったとされます。

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(京福四条大宮駅)

この一休さんですが、アニメや昔話なので「トンチの一休さん」として人々に愛されていますが、
史実の一休さんは、ちょっと…どころかだいぶんイメージが違います。

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(一休さんのイメージ)

さて、その史実に伝わる一休さん箇条書きで説明します。

●酒は飲むわ
●肉は食うわ
●女犯を行い
●男色も行っていた
●盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女におき
●岐翁紹禎という実子もいた
●朱鞘の木刀を差して街を歩き
●印可の証明書や由来ある文書を次々と燃やす
●正月に、杖の頭にドクロをつけ、「ご用心、ご用心」と叫びながら町を練り歩いた
●二度の自殺未遂

あらら…
なんか、だんだん一休さんのイメージが……というか、
アニメや昔話の正反対のような人物に見て取れます(^_^;)

また、有名な話でしが、こんなエピソードも…

ある日19才年下の蓮如上人をたずねたところ、不在であったので、
一休さんは、阿弥陀様の膝を枕にして昼寝をしました。

そこへ蓮如上人が、
「わしの、米びつ(商売道具)に何をしてとるか!」
怒鳴りましたが…
二人は、
共に大笑いしました。

実は二人、宗派は違いましたが…(一休は臨済宗・蓮如は浄土真宗)大の仲良しだったのです。

またまた、二人のエピソードでは、
一休さんが蓮如上人に手紙を書きました。

「あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ
       ……とかく人とは忙しきものなり」 

それに対して蓮如上人は、

「ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて
        ……かくて人は死ぬものなり」 と。

ユーモラスな話ですね(#^.^#)

これだけを聞けば、なんか一休さんがなまくら坊主のような感じですが、

庶民の貧困や飢餓で苦しみ、応仁の乱で社会は混沌としていた時代に、形式や階級にとらわれ、人々を救済しない当時の仏教界や幕府を痛烈に批判するための奇行だったといわれています。

こんな戒律や形式にとらわれない言動が、「トンチの一休さん」の話として後の江戸時代に形成かされ人々の人気を生み出しました。

さてさて、
後小松天皇が崩御される前に一休さんと対面し、後小松天皇から賜った品を一休さんは一生大事にしたといいます。
お互いに親子の認識があったのではないでしょうか。

一休さんが後小松天皇のご落胤であったというもう一つの証拠に、一休寺(酬恩庵)にある一休さんの墓は、現在宮内庁管轄

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(一休さんの墓)

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おそらく、一休さんが生前の時から後小松天皇のご落胤という認識が世間にあったと思われます。(ちなみに、生前一休さんは天皇のご落胤について、否定も肯定もしていません。)

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(一休寺の庭)
後に、後土御門天皇から大徳寺再建を勅願されて一休は、あらゆる人々に寄付を募り、当時から一休さんは庶民から大人気、瞬く間に莫大な資金が集まり大徳寺を再建させることができました。

そんな大人気の一休さんには侘び茶の祖となる、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)や、能の金春禅竹(こんぱるぜんちく)、俳諧の祖・山崎宗鑑(やまざきそうかん)などに禅を指導し、一休さんの思想の影響を受けました。
ということは、一休さんがいなければ、後の千利休や松尾芭蕉なども生まれなかったかもしれません。

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こんな一休さんが晩年過ごした一休寺(酬恩庵)が京都田辺にあります。
〒610-0341
京都府京田辺市薪里ノ内102

 電話番号 0774-62-0193

 電車で来る場合 路線検索
  ・近鉄「新田辺」駅から1.5km
  ・JR「京田辺」駅から1km
   京阪バス「一休寺道」下車徒歩5分
 タクシーで「一休寺」まで約5分

 車で来る場合  駐車場あります
拝観料500円

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実は、アニメね一休さんは日本だけでなく仏教国であるタイや、台湾にも放映され大人気だったそうです。
(ちなみにタイでは一番有名な日本人が一休さんなのです!)

日本の僧一休さんが、世界へ知れ渡り、その一休思想が世界に認知されているということなです。

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皆さんも、ぜひ、一休寺(酬恩庵)に行かれてみてはいかがでしょうか?

それでは、悠久の京都の歴史をあじわいながら保津川下りを楽しんでください(#^.^#)

(さいたに屋)

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