角倉了以と素庵親子が,近世の京都の町づくりに寄与した事業に
洛中の中に開削した運河・高瀬川があります。

高瀬川は鴨川の水を導き整備された人口河川で今も京都有数の繁華街・木屋町に流れを残しています。

文豪・森鴎外が小説「高瀬舟」を書いて一躍、全国的に有名になった川なので、
御存じの方も多いと思います。
開削工事は慶長16年(1611)に幕府の許可を得て着手、同年19年(1614)に完成しています。

今の二条木屋町から伏見港を結ぶ延長1.5㎞で、保津川を下る舟のように一方通行ではなく、
船頭が下流から綱で舟を曳き上げる「登り舟」もあり、回航型で舟が行き来したのです。
川筋は二条から東九条の西南でいったん鴨川と合流させ、再び竹田から伏見港へ入り、
宇治川と合流するルートで付けられましたが、大きな川との合流は水位調整が
必要となることから、かなり高度な土木技術が施されたことがわかります。

工事は3区間に分けて進められ、川幅の平均四間(約7m余り)の運河であった為、
荷物の積み下ろし場や舟の方向転換の場として「舟入」という浜を9か所整備、
また方向転換専門の舟廻しを2か所設置されました。
この姿が今、二条木屋町西詰にある「一ノ舟入」(史跡指定)だけが現存しています。

工事総費用は総額七万五千両(150億円以上)で、そのすべてを
了以・素庵親子の角倉家が出資しました。
完成後は「角倉申請書」や「京都御役向大概覚え書」などの古い資料によると
「全舟数百五九隻を回航させ、舟一隻一回に二貫五百文を取った」と書かれ、
うち一貫文は幕府へ、二百五十文は舟加工代へ、残りの一貫二百五十文が角倉家の利益でした。
単純計算して一日二百貫文(五十両)の収益があり、当時の平均年間所得が四両と
いわれていたことを考えると、相当、おいしい商売だったことがわかります。(京都の歴史4巻を参照)

登り舟には主に米が運ばれ、高瀬舟一隻に三十俵から四十五俵の米が積まれたそうです。
あとは酒や醤油、油、塩、砂糖といった食品からたばこや薬品などの物資も積まれていました。
また、下り舟には大八車や大長持、たんす、持仏堂など大きな荷物と
筆や竹皮などの物産が多くかったようです。

高瀬川沿いにはこれらの商品をあつかう商店が立ち並び、
近世京都の経済発展に大きく貢献する事業を起こしたのでした。

高瀬川を開削工事にも了以の豪胆な男気が見て取れる話があります。

開削工事に着手することを聞いた沿岸住民は開削で田地が損失する
不安や用水欠乏などを懸念する声が上がると「そのすべての責任は私が取る!」
と誓約書までかわし、なんともし事業が休止した時の補償まで行うと誓い、
住民を納得させています。

今の時代に一番求められる人物像ではないでしょうか?
角倉家は明治政府に移行するまで、この高瀬川と保津川の権利を持ち、
さらに淀川の通行管理も幕府から請け負うなど、
子々孫々が潤う経営基盤を確立していったのです。