角倉了以・・・安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に
活躍した豪商にして私達、保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在。

その志の高さとスケールの大きさでは当時の豪商の中でも、際立つ存在である。

近世初期から活発化した朱印船貿易で活躍する一方、徳川家康の命を受け、
いくつかの河川を切り開いた最先端土木技術を有する技士の一面も持つ実業家だ。

注目したいのは、そのどちらも「船」という乗り物がキーワードになっているところに、当時の流通変革との関係性を垣間見る。

そこが了以のビジネスセンスをみる時に見逃せないところで、
当時​、台頭してきた他の豪商たちとは視点の置き所が大きく異なる点だといえる。

了以の本姓は吉田といい、近江出身の医術者の家系に生まれている​。
吉田家は医術で室町幕府のお抱え専属医である一方、土倉(金融​業)も兼業しており、
京の嵯峨を中心に活躍していた。
了以の父・​宗桂も医師で、明(中国)に留学経験を持つ最先端の医療知識を持っていた。

了以は18歳の時に家督を継いでいるが、医術の道には進まず実業の道を選び、
50歳の時に朱印船貿易に着手した。
この発想に行き着くのは、父か​ら聞いた海外の情報が大きな起因になったといわれている。

角倉の朱印船貿易の先は、安南国(ベトナム)が中心で
北部のトンキンを渡航先にしており、航海には片道約一ヶ月以上は
かかったといわれている。

航海中に難破したり、海賊船に襲撃されたりする危険もはらんだリスクの大きい事業であったが、
一回の渡航に成功した時の利益は10億円単​位ともいわれ、危険性はあっても
誠に魅力のあるビジネスだったことは間違いない。

時は十六世紀半ば、当時の強国スペインやポルトガル、スペインにオランダなど
世界中が大航海時代を迎えていた頃。その大航海時代の潮流に乗り、
東南アジアという海外に打って出た日本で初めての大貿易商人といっていいだろう。

その冒険心溢れる商魂で、通算航海数17回という
当時では最多の航海に挑んだ稀代の起業家であった。

そんな了以が、息子・素庵と一緒に、次に目を付けたのが保津川だったのある。

(つづ​く)

《はっちん》