僕の家から保津川遊船までの通勤途中に

「聖隣寺」

というお寺があります。

このお寺には、なんと!

織田信長公の供養塔があります。

 

この供養塔は、

織田信長の四男であり、豊臣秀吉の養子となった

羽柴秀勝が建てものです。

 本能寺の変により死去した実父信長を弔うために建てた五輪塔には、

「総見院殿一品泰厳大居士」

と刻まれています。

 

今日は、この羽柴秀勝について書きます。

羽 柴 秀 勝

【1568年~1585年】

秀勝がいつ秀吉の養子になったかは明確ではありませんが、有名な1582年(天正10年)、秀吉の備前高松城の水攻めにも「羽柴秀勝」として従軍しています。

本能寺の変後の山崎の戦いでは、実父信長の仇を討ち、清洲会議によって明智光秀の旧領丹波亀山を与えられ、丹波亀山城主となりました。

同年9月15日、大徳寺の信長の葬儀では、喪主を務めました。

(もちろん、実質的には秀吉主導でしたが…)

この供養塔を健立したのは、1583年(天正11年)

1585年(天正13年)、豊臣秀吉は関白に任じられます。

そして、羽柴秀勝は、この同じ年に死去しています。

享年18歳であったそうです。

 

ちなみに、この後の丹波亀山城主は秀吉の姉の子であり、同じく秀吉の養子に迎えられ、これまた同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)であります。

 

ここで、保津川下りの船頭的見解をしてみたいと思います!

この時代、テレビなどはありません。

庶民からしたらお殿様の顔を拝めることは、ほとんど皆無です。

ということは、城主の名前も同じ。

年もだいたい一緒だったそうです。

つまり、

羽柴(織田)秀勝は秀吉により暗殺され、

羽柴(豊臣)秀勝は、すげ替えられた

影武者であったのではないでしょうか。

秀吉は、かなり織田信長をの子供たちや血を引くものを利用した節があります。

清洲会議の織田家の跡目の論争でも、まだ赤子であった三法師(信長の嫡男織田信忠の子)を担ぎだしたり、淀君(茶々)を側室に迎えるなど…

 

二人の秀勝については、秀吉が天下を取れば、織田家からの養子秀勝は用なし。

自分の身内とすげ替えたのではないでしょうか?

 

この聖隣寺の信長の供養塔は、お世辞でも立派なものではありません。

しかも、

どことなく、遠慮がちです。(秀吉をはばかってか?)

自分の実父である信長の供養塔を建てた時の羽柴(織田)秀勝の心境はいかばかりであったことでしょう?

僕は、この供養塔を初めて見た時、とても切ない気持ちになりました。

 

聖隣寺

亀岡駅から南へ徒歩15分

Tel: 0771-22-2546

 

 

(さいたに屋)