歴史ブログ

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祇園祭の謎 

2010.07.07

 コンコン・チキチン・コンチキチン♪(^・^)ノ⌒☆

と祇園祭の祇園ばやしの音が響けば、京都の夏が始まります。

祇園祭は、

日本三大祭のひとつで、千百年の伝統を有する八坂神社祭礼で、

 

古くは、祇園御霊会と呼ばれ、869年(貞観11)、

京の都をはじめ全国的に疫病が流行したとき、人々はスサノオの祟りと考え、

神泉苑で当時の国の数66カ国にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(スサノオの本垂)祭り、神輿で出して災難を除去を祈ったのが始まりとされます。

 

970年(安和3)から毎年行うようになり、室町時代になり、四条室町を中心とする町衆たちの自治組織によって祇園祭の山鉾を作って巡行されるようになりました。

その後、応仁の乱や第2次世界大戦などでの中断はあるものの、千年以上の歴史を誇る祭りとして続き、京都のみならず日本を代表する祭りとなりました。

 

今日は、その祇園祭の謎に迫りたいと思います。

その謎とは、祇園祭がイスラエル(ユダヤ民族)との関係があるという説をご紹介したいと思います。

 祇園祭では、それぞれの山鉾で厄除けの「ちまき」をいただきますが、

そこには、

「蘇民将来之子孫也」

と書かれており、このちまきを家の玄関にかざるとスサノオの災いから逃れられるという言伝えから、この風習が伝わります。

このことは、『釈日本記』にある『備後風土記』から伝わるようです。

ちょっと、ご紹介しますと

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むかし、むかし、

あるところで、スサノオが泊ま宿がなく困っておりました。

スサノオは、ある裕福な巨旦将来の家に行き宿を求めましたが、

巨旦将来は、「食べ物もなければ部屋もない」とスサノオを追い払いました。

そこでスサノオは、巨旦将来の兄、蘇民将来の家に立ち寄ったところ、

蘇民将来の家は貧しいながらも、スサノオをこころよく迎え入れましたので、

スサノオは、そのお礼に「蘇民将来の子孫」と書いた茅の輪を門前に飾れば難を逃れられると約束しました。

その後、蘇民将来の家は代々栄えましたが、巨旦将来の家は、災いや疫病により子孫は絶え滅びてしまいまいした

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こ門前に茅の輪の伝説が伝わり、祇園祭の「ちまき」の風習となったわけです。

さて、この伝説のお話しは、実はイスラエルの「過越祭」の内容が酷使しているといわれています。

 

これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷となり苦しんでいた時、神がモーゼに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因し、その神の救いを記念して「過越祭」が行われています。

 

「蘇民」という言葉も「民が蘇る」という意味でもあるので、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しんでいたところを、民の誇りを蘇るという意味にも読み取れます。

また、祇園祭のメインイベントである『山鉾巡行』は7月17日に行われます。

この7月17日というのは、ノアの箱舟が地上に降りた日でもあり、

そいえば、祇園祭でも船を模様した『船鉾』があります。

祇園祭の「ギオン」という言葉を古代ユダヤで行われていた「シオン祭」からきているともいわれています。

山鉾にはタペストリーが前掛けといてつけられていますが、

この上の写真「水を供するリベカ」は、ユダヤの教典・タナフの中の一節に描かれており、

このタぺストリは、ベルギー・フランドル地方で製作さらたもので、1718町内に住む豪商・沼津宇右衛門によって函谷鉾に寄贈されました。

1718年は江戸時代で、「暴れん坊将軍」で有名な 8代将軍徳川吉宗の時代です。

この時代はキリスト教が禁止されていたので、聖書などは禁書だったのでタナフの一節の絵を飾るということはご法度だったはずです。

それなのに祇園祭に用いられていたということは不思議なことなのです。

 

また、久慈力氏の著書『祇園祭の大きな秘密』の中で、

「祇園という言葉は、日本語でも中国語でも韓国語でも説明がつかない。インドの言葉で説明されても納得いかないだろう」

と述べています。

祇園、「ギオン」という言葉が古代ユダヤの「シオン祭」から来ているという説で、「シオン」とはエルサレムの別名で、ヘブライ語で「ツィオン」と呼ばれ、英語圏に入り「ザイオン」とか「ジオン」となり日本に来て「ギオン」となったというのです。

 

つまり、

日本は古来、イスラエル(古代ユダヤ)の影響を受けてという証拠であり、永きにわたる時間を通って、今の私たちの生活に寝ずいてきたという説なのです。

 

もちろん、この説は日本の歴史学会で信憑性のないことから認知されていません。

しかし、このような時代の流れは、証拠になる書物などで判断されるものでなく、

当時から続く祭りや風習などの共通点などを検証することが大事だと思います。

 

この日本と古代ユダヤについては、平安時代に巨大な権勢をほこっていた

「秦氏」

についてこの後のブログで述べていきたいと思っています。

日本版『ダビンチ・コード』のような説となるでしょう。

お楽しみに…

なお、

保津川下り着船場(嵐山)から祇園祭へは、

★JR嵯峨嵐山駅から二条駅へ、二条駅から地下鉄東西線で烏丸御池駅下車

 ★阪急嵐山駅から桂駅へ桂駅から四条烏丸駅下車

★京福(嵐電)嵐山駅から四条大宮駅下車

が便利だと思います。

  

【 祇 園 祭 】

7月13日(火) 鉾建

7月15日(木) 宵々山 歩行者天国 午後6時~11時(予定)

7月16日(金) 宵山   歩行者天国 午後6時~11時(予定)

7月17日(土) 山鉾巡行 午前9時から

  

●祇園祭に関するお問い合わせ/京都市観光協会 TEL(075)752-0227

※なお、祇園祭の問い合わせだからといって、この祇園祭とユダヤの関係性を尋ねられませんように…u(uu)u

聞きたい方は、保津川下りをしに来て、船頭さいたに屋にお尋ね下さい。

 

(さいたに屋)

  

 

 

 

金閣寺が焼失して60年

2010.07.02

さて、問題です。

この写真の場所はどこでしょう?

 

銀閣寺?

にも見えなくはないですね。

 

答えは、金閣寺です。

 

え、金閣寺!

全然、金色じゃないやん。

と思われるでしょう。

 

そうなんです。

現在の金閣寺は昔から現存する建造物ではなく、1955年に再建されたものなのです。

金閣寺は、1950年7月2日、放火により当時国宝であった金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等が焼失しています。

 

金閣寺が焼失して、今日は60年になります。

 

【 金 閣 寺 (舎利殿)】

金閣寺は通称名で、正しくは鹿苑寺といいます。

創建年 1397年(応永4年)

開基 足利義満(三代室町幕府将軍)  開山 夢想疎石

 

もしも、1950年に焼けていなければ、応仁の乱以前に建てられ現存する建造物となるはずでした。

1200年の都といわれる京都ですが、応仁の乱以前の建造物は数少なく、今に残る多くの寺社仏閣は応仁の乱以後に建てられたものが多いのです。

 

 

1950年

7月2日未明、金閣寺の学僧(当時21歳)により放火され金閣寺は全焼。

幸いにも人的被害はありませんでしたが、国宝の舎利殿や足利義満木造(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点が焼失してしまいました。

この事件を「金閣寺焼失事件」といい、世間を大変震撼させました。

 この事件を題材に、三島由紀夫『金閣寺』や水上勉『五番町夕霧楼』で小説となり、水上勉は、その後、各方面の取材を続け1979年にノンフィクション『金閣寺炎上』を出しました。

 

金閣寺は焼失して5年後、国や京都府の支援、地元の経済界などの浄財により再建され、明治期の大修理の際に詳細な図面が作成されていたので、きわめて忠実に建てることが出来ました。

 このように焼失してしまった金閣寺でありましたが、金閣寺を愛する多くの人々の手により再建され、金色の光を取り戻し現在の私たちを魅了し続けています。

 

さて、

保津川下りと金閣寺は大変アクセスリンクしやすいんですよ。

これは、京都の人でも気づく人は少ないです。

 

保津川下りの終着点嵐山(渡月橋200メートル上流)から、京福(嵐電)『嵐山駅』から『北野白梅町駅』に乗り、(約20分)

北野白梅町駅から北へ徒歩15分で行けます。

 

近いです!!

 

保津川下りと金閣寺

こいう観光もいかがでしょうか?

 

(さいたに屋)

がんばれ!日本!!球技の神様、京都・白峰神宮

2010.06.29

 

 

オー ♪ ニッポン ♪

ニッポン♪ニッポン♪ニッポ~ン♪

 

南アフリカW杯、日本は期待以上の活躍をしていますね。

(ただ今、決勝トーナメント・パラグアイ戦直前に書いています)

 

日本代表は実力以上の力が発揮されている!!

そう思う人は少なくないでしょう。

僕が思うに、おそらく、

日本の球技神様のお力があるのではと思うのです。

その神様とは、京都・白峰神宮です

 

 【白 峰 神 宮】(しらみねじんぐう)

京都府京都市上京区にある神社で、

崇徳天皇・淳仁天皇

が祀られています。

白峰神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった公家

飛鳥井家

の屋敷跡であったそうで、もともと、ここに祀れていた

精大明神

は蹴鞠の守護神であり、現在では、サッカのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ信仰を集めています。

 

とりわけ、サッカ関係者の信仰は熱く!

日本代表選手が寄進したボールなども数多くあります。

日本代表には、神様がついています。

だから、勝つことを期待し、最後まで応援しましょう!!

日本には、

それはそれは

霊験あらたかな神様

白峰神宮があります。

がんばれ!!日本(^0^)/

 (さいたに屋)

亀岡に織田信長の墓が…(聖隣寺)

2010.06.22

僕の家から保津川遊船までの通勤途中に

「聖隣寺」

というお寺があります。

このお寺には、なんと!

織田信長公の供養塔があります。

 

この供養塔は、

織田信長の四男であり、豊臣秀吉の養子となった

羽柴秀勝が建てものです。

 本能寺の変により死去した実父信長を弔うために建てた五輪塔には、

「総見院殿一品泰厳大居士」

と刻まれています。

 

今日は、この羽柴秀勝について書きます。

羽 柴 秀 勝

【1568年~1585年】

秀勝がいつ秀吉の養子になったかは明確ではありませんが、有名な1582年(天正10年)、秀吉の備前高松城の水攻めにも「羽柴秀勝」として従軍しています。

本能寺の変後の山崎の戦いでは、実父信長の仇を討ち、清洲会議によって明智光秀の旧領丹波亀山を与えられ、丹波亀山城主となりました。

同年9月15日、大徳寺の信長の葬儀では、喪主を務めました。

(もちろん、実質的には秀吉主導でしたが…)

この供養塔を健立したのは、1583年(天正11年)

1585年(天正13年)、豊臣秀吉は関白に任じられます。

そして、羽柴秀勝は、この同じ年に死去しています。

享年18歳であったそうです。

 

ちなみに、この後の丹波亀山城主は秀吉の姉の子であり、同じく秀吉の養子に迎えられ、これまた同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)であります。

 

ここで、保津川下りの船頭的見解をしてみたいと思います!

この時代、テレビなどはありません。

庶民からしたらお殿様の顔を拝めることは、ほとんど皆無です。

ということは、城主の名前も同じ。

年もだいたい一緒だったそうです。

つまり、

羽柴(織田)秀勝は秀吉により暗殺され、

羽柴(豊臣)秀勝は、すげ替えられた

影武者であったのではないでしょうか。

秀吉は、かなり織田信長をの子供たちや血を引くものを利用した節があります。

清洲会議の織田家の跡目の論争でも、まだ赤子であった三法師(信長の嫡男織田信忠の子)を担ぎだしたり、淀君(茶々)を側室に迎えるなど…

 

二人の秀勝については、秀吉が天下を取れば、織田家からの養子秀勝は用なし。

自分の身内とすげ替えたのではないでしょうか?

 

この聖隣寺の信長の供養塔は、お世辞でも立派なものではありません。

しかも、

どことなく、遠慮がちです。(秀吉をはばかってか?)

自分の実父である信長の供養塔を建てた時の羽柴(織田)秀勝の心境はいかばかりであったことでしょう?

僕は、この供養塔を初めて見た時、とても切ない気持ちになりました。

 

聖隣寺

亀岡駅から南へ徒歩15分

Tel: 0771-22-2546

 

 

(さいたに屋)

 

パネルディスカッション 本能寺の変

2010.06.20

今日は保津川下りが休みだったので、ガレリアかめおかで行われた「本能寺の変」を題材としたパネルディスカッションに行ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

【パネリスト】

山本 雅和さん  ((財)京都市埋蔵文化財研究所)

仁木 宏さん   (大阪市立大学院文学研究科教授

福島 克彦さん  (城郭談話会会員)

【コーディネーター】

黒川 孝宏さん  (亀岡市文化資料館館長

ディスカッソンでは、考古学の観点・当時の都市京都事情や山陰街道の事情などが専門的に語られました。

会場も大勢の人が来られており、ほぼ満員。

質疑応答も熱いディスカッションでありました。

山本 雅和さんからは、「本能寺の変」発掘調査から

2007から本能寺跡地の発掘が行れ、その事例を報告してもらいました。

発掘された瓦などは多くの焼けたあとがあり、定説通りに本能寺が焼かれたことを証明さたとされます。

また、発掘された陶器で16世紀末に埋められた整地であり、周囲が堀で囲まれ石垣も積まれていたことがわかりました。

面白い話で、ある有名な「本能寺の変」をあつかった歴史小説で、本能寺と南蛮寺が地下でつながって逃げ穴があったという説がありましたが、

本能寺と南蛮寺の間には西洞院川があり、当時の土木技術では川の下には穴を通す技術がないので不可能であると語られました。

 

仁木 宏さんからは、

なぜ、織田信長が本能寺に宿泊しなけばならかったかを述べられ、

京都は昔から天皇の都であり、そこはつまり「平和」空間。

その尊い天皇がおられるところに城は不要という価値観があったとされます。

おそらく信長も京都に城を築城したかったはずなのですが、その「掟」というべき規制概念を信長は克服することができず、

京都でもまだ、堀などを持つ日蓮宗派の寺院に泊まるしかなかった。

それが「本能寺の変」の要因のひとつともいえます。

 

福島 克彦さんからは、

明智光秀軍が、丹波亀山城から京都本能寺までの道筋・山陰道を調査され、

中世の時代、山陰道というのは山陽道(西国街道)よりも主流の道路であり、昔から桂川に桂橋が架けられていたという事例を述べられ、

西国街道の方は橋はなく、川を舟で渡っていました。

そして、信長は、戦のために道路整備を推し進め、馬や兵隊が大軍で移動できるように整備したことが、光秀の電光石火の進軍につながったと述べられました。

 

「本能寺の変」は、日本の歴史至上で最高のミステリーといわれていますが、

このよな歴史的背景を調べていくことが、何よりその謎を解く鍵であるはずです。

 

わたくし、さいたに屋もこのブログを通して、歴史研究・郷土研究をしてまいりたいと思います。

 

 

(byさいたに屋)

 

 

 

本能寺の変の謎 

2010.06.09

 

 

 

 

 

 

 

 

これより東、山城の国

1582年(天正10)6月2日、428年前に

明智光秀の軍勢が、この老ノ坂を通り、織田信長がいる京都本能寺を攻め込みました。

「本能寺の変」です

総勢1万3千といわれる軍勢が丹波亀山城(亀岡)を出撃し、主君信長がいる京都本能寺を目指すまでの道中、

光秀の心境はいかばかりであったことでしょう?

今日は、その「本能寺の変」の謎に迫りたいと思います。

 (※上記の暦は陰暦です。)

 

 本能寺の変には謎が多く、織田信長家臣団の筆頭格であり、信長により浪人から見出されたこともあり、光秀にとって信長は大恩人でもあります。

この通説じみた前置きが、謎を呼び、明智光秀という武将が「謀反人」「賊人」という汚名をきせられてしまい、光秀という武将の評価を大いに下げさせます。

また、あまりの突拍子のない光秀の裏切りに、後世の歴史学者や研究家は本能寺の変の原因を上げ、いろいろと説を立てます。

ちょっと、代表的な説を上げましょう。

 

まずは、光秀怨恨説

この怨恨説でも、いろんな話があります。

◆徳川家康接待役を解任され公然の前で恥をかかされたから。

◆丹波八上城で人質であった光秀の母を信長の命令により死なせてしまったため。

◆武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったことを、信長が

聞き、「おまえごときが何をしたのだ」と足蹴にされたこと。

◆坂本・丹波の光秀の領地を召し上げられ、まだ敵地の出雲・伯耆もしくは、岩見の国がえを命じられたため

と、まあ、他にも数々と説があります。

また、怨恨説以外に光秀自身の野望説

光秀単独犯ではなく、

黒幕説

も、まことしやか論じられています。

最近は、この黒幕が誰であったか、最近の歴女ブームもあり、

数々の黒幕の人物や勢力が上げられて、テレビ番組でも取り上げられ、本能寺の変を題材とした本なども書店でよく見ます。

ちょっと黒幕説を上げると…

◆足利義昭説

◆朝廷説

◆イエズス会説

◆羽柴秀吉説

◆徳川家康説

◆堺商人説(今井宗久や千利休など)

などなど、これもまた他にも沢山の説があります。

そこで今日は、亀岡在住保津川下りの船頭的「本能寺の変」の謎

に迫りたいと思います!

 最初に述べたように、本能寺を攻めた光秀軍は丹波亀山城から1万3千の兵で出撃しています。

この中には、光秀親衛隊というべき部隊である近江衆や山城衆もいましたが、大半は自国の丹波衆が軍勢を占めていました。

つまり、いくら光秀が個人的に信長を討ちたくても、丹波衆が

「YES」

といわなければ光秀についていかないということなのです。

 

もちろん、主君の言うことが絶対だから、光秀の言うことをきかないといけなかったと思われるかもしれません。

しかし、そのような主従制度が完全に確立されたのは秀吉の時代になってからなのです。

信長は兵農分離を推し進めて人物ですが、完全に信長軍団を確立出来ておらず、ただでさえ、全国にいたるところに征伐軍を派遣していたので、丹波の軍団のほとんどが寄せ集めの連合軍だったのです。

裏切ろうと思えば、いくらでも光秀を裏切れたはずです。

ということは、光秀が信長を討つことを主要な丹波衆は知っていたのではなか!

というのが保津川下り船頭的「本能寺の変」の見解です。

つまり、「本能寺の変」の背景には丹波衆の意志が反映されていたはずなのです。

では、丹波衆の意志とは?

これまた、保津川下り船頭的見解でいくと、

丹波衆は、地方分権型の政治を求めていた。

しかし、信長の政策は、完全なる中央集権。

元来、丹波は「これ」といった君主や大名がおらず、「どんぐりの背比べ」のような小さい豪族が連合体となっていました。

信長も当初は、その丹波の連合体を認めていましたが、

やはり、京の都の隣に連合体がいるのは目の上のたんこぶでありました。

信長は、これを光秀により掌握させ、丹波を我がものとしまし、信長型中央集権の政策を推し進めていきます。

 

丹波衆のほとんどは、信長型政策を快く思っておらず、本能寺の変で光秀を利用した?

もしくは、光秀と考えを同調したのではないでしょうか。

 

昨今も道州制や地方分権が政治において語られます。

「本能寺の変」も単なる個人的な感情でおきた出来事ではなく、

あきらかに、政治的な要因があったと思われます。

丹波衆の光秀に対する思い入れは、後の江戸時代になっても消えることなく、現在でもそのなごりが残る風習や史跡が残っていること、これがなによりもの証拠です。

まずは、みなさん!!

ちょいと亀岡によってみてください(^o^)/

本能寺の変の謎が見えてくるはずです。もちろん、保津川下りもお忘れなく   n(uu)n

 

 (byさいたに屋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ときは今 雨が下る 五月哉

2010.05.28

                                          明智光秀画像 (本徳寺蔵)

「敵は本能寺にあり!!」

  天正10年(1582)6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反をおこし、京都本能寺を襲撃し、主君信長を討った「本能寺の変」。

その5日前、つまり5月27日、

光秀は京都の愛宕山に参詣し、祭神の愛宕権現太郎坊(迦具土神)の御前で三度くじを引いたといわれています。三度とも「凶」だったとか…

 

 

 

 

 

(渡月橋と愛宕山)

光秀が愛宕山に

登った理由は、当時軍神と崇められていた勝軍地蔵が愛宕山にあり、中国攻め援軍の戦勝祈願(名目)のためと、

翌、5月28日に愛宕山山内の西坊威徳院で愛宕百韻として連歌の会(歌会)が行われたからです。

                                                   (愛宕神社)

 その時、光秀が詠んだ句が、

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

明智家は元来、土岐氏の末裔であり、その土岐が「あめ」と「天」をかけて「下なる」、つまり「天下」をとる時期が来たと解釈できます。

 

後に、山崎合戦で勝利した羽柴秀吉(豊臣)は、

 この歌会で一緒だった里村紹巴を謀反の心情を理解していたのではと問い詰めます。秀吉からの疑いを恐れた紹巴は、

「ときは今あめが下なる五月哉」と、単なる五月雨の情景を詠った句だと細工し

その難を逃れます。

 僕が思うに明智光秀は、5月の27・28日時点で、ほぼ謀反の決意があったと考えます。

「本能寺の変」は、日本の歴史史上、最大のミステリーといわれています。

しかし、愛宕山から光秀も見たであろう京都の風景は、

まさに!

「信長、討つべし!!」

と決意したのではないでしょうか?

また、「本能寺の変」の謎は後日に書きたいと思います。

 

保津川下りでは、この光秀が登った愛宕山を望むことが出来ます。

標高924メートル、京都市内から見える山で一番高く、京都では親しみをこめて

「あたごさん」

と呼びます。

 

(byさいたに屋)

 

 

5月15日は葵祭り

2010.05.13

5月15日は、京都では『葵祭』が行われます。

葵祭は、下鴨神社と上賀茂神社の例祭であり、京都三大祭のひとつとして知られております。

この祭は、平安時代の装飾に身をつつんだ500人を超える行列が

雅やかに、また風流に巡幸されます。

巡幸コースは、

●京都御所出発 (午前10:30)

●下鴨神社着 (午前11:40)

●下鴨神社出発 (午後2:20)

●上賀茂神社着 (午後3:30)

●上賀茂神社 祭儀式終了 (午後6:30)

葵祭の起源は、

今から1400年前、欽明天皇の時代に凶作が続きました。

占ったところ、賀茂大神の祟りであり、その怒りを鎮めるために、4月の吉日(明治維新後5月15日となる)神鈴をつけた馬を走らせて祭礼を行ない、五穀豊穣を祈願しました。これが葵祭の始まりといわれています。

 

1000年前の物語、世界最古の長編小説『源氏物語』

「葵」の巻の賀茂祭(葵祭)を舞台としています。

そこでは、

共に主人公光源氏を愛して女性ふたりの争いの場面として有名で、

六条御息所と葵の上の一条大路の車争い。

行列に参加していた光源氏を見物しようと葵の上の牛車と六条御息所の牛車の場所取りのいざこざで、

結局、本妻である葵の上の車が六条御息所の車を追い出してしまいます。

 

これに怨みを持った六条御息所は生きた怨霊となり、後に葵の上を呪い殺してしまします。

 

あ~、女性ってこわい(><)

 

 

さてさて、葵祭は京都御所から下鴨神社・上賀茂神社という約8キロという長い巡幸です。

 

一日中のお祭ということもあり、どうか、葵祭を見物して保津川下り。

もしくは、保津川下りをして葵祭を見物。

このどちらかをオススメします(^0^)/

そして、ぼくは、

世の女性が、六条御息所のようにならないことを祈願します(汗)

 

(byさいたに屋)

 

 



 

亀岡市文化資料館 明智光秀展

2010.05.06
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昔、京都と亀岡は別の国でした。

えっ!?

 と思われる方もおられるでしょうが、確かに別の国だったのです。

 京都は、山城の国 亀岡は、丹波の国 そういうと、なるほどと思われるでしょう。

亀岡は昔、丹波亀山といい、戦国時代明智光秀が領地を治めていました。

光秀はゆかりの地である亀岡では、ただいま亀岡市文化資料にて、

 『明智光秀〜今よみがえる!光秀の実像〜』

が展示開催されております。

この展示では、 明智光秀画像 (本徳寺像)や光秀直筆の書状など、光秀に関する資料が多数出品されており、

 光秀ファンはもちろんのこと、戦国ファン、歴史ファンにはたまらない展示会です!

 この展示会には、きっと、『本能寺の変』の謎が隠されているはず。

 僕は、そのように考え鑑賞してまいりました。

 ぜひぜひ、皆様も、歴史のロマンに触れてみてはいかがでしょうか。

 ◆会期 平成22年4月29日(木・祝)〜6月6日(日)

   ※毎週月曜日と5月6日(木)・7日(金)は休館日

 ◆会場 亀岡市文化資料 展示室1・2

  京都府亀岡市古世町中内坪1

  TEL 0771-22-0599

  JR 亀岡駅から徒歩7分

 保津川下り乗船場から徒歩10分

 (by さいたに屋)

謀反人!明智光秀は亀岡では英雄!!(☆o☆)

2010.04.28
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古今東西、世の中には「悪役」というキャラが常に存在し、倒すべき敵として人間の感情を盛り立てるそうです。

例えば、
『ピーターパン』ならフック船長、
『仮面ライダー』ならショッカーの怪人、
『ワンピース』なら黒ひげ…

常に物語には「善い者」と「悪者」があり、

いわゆる
【勧善懲悪】(かんぜんちょうあく)

というもので、

そして、物語や小説だけでなく、

歴史という概念でも【勧善懲悪】があてはめられることがあります。

日本史における「悪者」といえば…

インターネット
【日本史 悪者】
と検索してみましょう…

出るわ出るわでo(゜∇゜*o)(o*゜∇゜)o〜♪

蘇我入鹿

道鏡

平将門

足利尊氏

などなど…

名をつなねる中に
明 智 光 秀

の名もあります。

織田信長の家臣であらながら、本能寺の変をおこし信長を死に追いやってしまう大悪人。

昔の歴史の先生ならそのように教えたかも…

織田信長は、日本史人気ランキングでも
No.1
の人物。

天下統一を目の前にした信長を殺すわけですから、昔から

明智光秀といえば…
「謀反人」
「大逆賊」

という烙印を押され、
つまり「悪者」と歴史に刻まれたわけです。

しかし、
僕たちが住む京都府亀岡市では、
明智光秀は
英雄なのです。

その証拠に、毎年亀岡では『亀岡光秀まつり』というイベントが行われ、明智光秀に扮する騎馬武者を先頭に武者行列が亀岡市街を練り歩きます。

明智光秀は織田信長の命により天正7年(1579)に丹波国(京都府北部と兵庫県の一部)平定、丹波亀山(現亀岡市)に丹波亀山城を築城。

この丹波亀山城が光秀の軍事拠点となり、天正10年(1582)の本能寺の変は、この丹波亀山城から1万3千の兵が率いて出陣しています。

その後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に破れ、敗走途中に小栗栖で土民に襲われ、あえない最期をとげました。
55歳てあったといいます。

しかし、領地であった丹波亀山の領民には愛されて、今でも明智光秀ゆかりの地が多く残り、

とにかく、領民のあいたでは名君であったようで城下町整備や丹波産の名産品栽培を奨励します。

特に小豆は、丹波「大納言」と称されるほどで、現在でも有名であります。

このような、明智光秀ゆかりの地域が光秀を顕彰する活動があいまってか、最近は光秀の評価も見直されているように思います。

ある某戦国ゲームソフトでは明智光秀は、かなりのイケメンに描かれておりますし、光秀が登場する時代劇も光秀贔屓に描かれているものもあります。

そもそも、何が「善い者」で何が「悪者」なのか?

はたまた、もともと「善い者」も「悪者」もないのではないでしょうか?

そのような見方で歴史を見つめ直すと…

「実に、おもしろい!」
と思います(^O^)/

(byさいたに屋)

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