歴史ブログ

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龍馬も、この渡月橋を渡ったか?

2010.11.29

  

渡月橋は、まさに嵐山のシンボルといえる橋です。

映画やテレビドラマや観光雑誌などに多様に用いられています。

では、次にもう一枚の写真を見てくだいさい。

明治初期の嵐山・渡月橋の写真です↓

 

今の渡月橋とは思えないほど、みすぼらしい橋ですよね。

渡月橋の名の由来は、もともと「葛野橋」や「法輪寺橋」と呼ばれていました。鎌倉時代に亀山天皇が、仲秋の名月の晩に大堰川(保津川)で舟遊びされた際、

「くまなき月の渡るに似る

満月が橋の上を渡るように見えることから、「渡月橋」と名付けられました。

そんな渡月橋も室町時代、天龍寺が大変な権勢を誇っていた時は、今の渡月橋より100メートルほど上流にあったそうです。

すなわち、天龍寺の門前橋だったわけです。
一時は朱色の欄干の渡月橋もあったようです

ところが、角倉了以が保津川を開削した1606(慶長11)年に今現在の場所に移されました。

おそらく、度重なる大堰川の氾濫より、今現在の場所の方が良かったのでしょう。

昔の橋はもちろん木造の橋で、もちろん、度重なる洪水で渡月橋は何度も流出しました。

さて、話は変わり、嵐山は昔から風光明媚な名所として知られ、坂本龍馬も何度か訪れていたようです。

嵐山に来た龍馬は和歌を詠んでいます。

「嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉」

と嵐山の紅葉と、おそらく天龍寺の鐘の音を聴きながら詠んだのでしょう。

当時、午後の五時に天龍寺の鐘がなり、その鐘の合図が筏を流していた西高瀬川の水門が閉められたようなので、
龍馬が詠んだ時間は、午後の五時だったのでしょう。

そして、この写真の渡月橋を龍馬も渡ったかもしれませんが、
残念ながら、明治初期の渡月橋写真です。

記録では、明治の最初に渡月橋は流出した記録が残っています。

龍馬は幕末に亡くなっているので、この渡月橋を渡ることは出来ないですね。

しかし、龍馬は嵐山の桜や紅葉をこよなく愛していたようで、幾度か嵐山に訪れています。

もしかしたら、龍馬は保津川下りにもしたかもしれません。
亀岡から京都に出ようと思えば、標高200メートルの老ノ坂(峠道)を越えなければなりません。

合理的な龍馬こと、きっと船頭に船頭に声をかけて乗せてもらっていたかもしれません。

あくまでも、僕の想像ですが……

ちなみに、龍馬がこの詩を読んだ時期は、暗殺直前の11月と思われますが、

時代の暦は、陰暦なので暗殺の年ではなく、年表調を調べてみると、1865年の9月ごろと思われます。

この時、龍馬は姉乙女に「お龍」(後の龍馬の妻)を紹介している手紙を9月に書いています。

おそらく、龍馬とお龍とが嵐山にデートした時の詩ではなかったか?

と僕は勝手に思っています。

 

(若い時のお龍の写真といわれています。)

まあ、妄想ですが…(^^;)

さいたに屋


鍬山神社の紅葉

2010.11.12

僕は、自転車通勤をしているのですが、ちょっと寄り道をしたら

鍬山神社(くわやまじんじゃ)

があります。

というわけで参拝に行きました(^^)/

祭神は、

大己貴命(大国主命)と誉田神

伝説によると、

神代の昔、丹波の国は泥沼の水の底に沈み、里人の生活は厳しいものでした。

そこで大己貴命(大国主命)、大山咋神以下八柱が黒柄山(亀岡と高槻の境にある山)に集まり、

「丹色(朱色)の湖」を見下ろしながら、広い豊かな土地をつくることを神々は相談しました。

樫船に乗り、鍬や持籠(モッコ)を持ち、

(この近くに樫船神社があります)

保津請田あたりを切り拓き、また、岩や大木を烈火のごとく焼きました。

すると、溜まった湖水は川となり流れ出し、出来た土地が丹波の地なのです。

渓谷を切り開いたときに使った鍬が山積みとなった様子から、

鍬山神社

と称されました。

亀岡には、大己貴命(大国主命)をはじめ、出雲の神々を祀る神社がたくさんあり、

おそらく、昔絶大なる政治力・経済力を持っていた

秦氏

に関係すると思われます。

毎年10月23・24・25に行われる

「亀岡祭」

は、丹波開拓の神である鍬山神社の祭りであり、命を恵む大地への感謝と五穀豊穣を祈願したことから始まります。

請田神社は古くは「浮田大明神」とも称され、

「浮いて田んぼが出来た」 

つまり、湖水が干拓して農地をつくった神様で、保津で行われる「保津の火祭り」は、この伝説から由来しているといわれています。

 この神様たちが堀り出した川が、我らの保津川なのです。

ちなみに、この写真の請田神社の神様は、

大山咋命(オオヤマクイノミコト)

市杵島姫命(イチキシマヒメのミコト)

で京都の松尾大社の神様でもあります。

 

だいぶん、話しがそれてきました。

しかし、もうちょっと、この話しを続けると…

事実、丹波が昔、湖であったことは地質学的にも解明されており、まんざら伝説だけの話しではないのです。

亀岡の鍬山神社は、紅葉の名所としてられており

 多方面から多くの人々が来られます。

そして、今鍬山神社の紅葉は最高潮を迎えようとしております。

 

【鍬山神社アクセス】

JR嵯峨野線(山陰線) 亀岡駅 徒歩25分

亀岡駅からコミュニティーバス ムツミ病院前 徒歩5分 

京阪京都交通バス 矢田口 徒歩10分


時代祭の先達 山国隊

2010.10.22

10月22日の今日、

京都市の平安神宮の祭りである

時代祭

が行われました。

 

1895年(明治28)、平安遷都1100年を記念して平神神宮が創建された際、市民のより組織された平安講社が、

その記念事業の大祭として時代祭が始まりました。

祭が行われる10月22日は、桓武天皇が794年(延暦13)に長岡京から平安京に都が移された日にちなんでいます。

時代祭は、明治維新から延暦時代へと時代をさかのぼりながら、そのの歴史上の人物やその時代の風俗や衣装に身をまとった2000名に達する行列が、

京都御所から平安神宮までの約4.5キロを巡行される行列で、葵祭・祇園祭ともに京都三大祭の一つ数えられます。

  

さて、今日は、

  

その行列の先達(先頭)の

山国隊

ついて書きたいと思います。

時代祭の先頭、先達ともいわれる「維新勤王隊列」は、

幕末期に丹波桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)で結成された農兵隊「山国隊」をモデルにしています。

錦の御旗に陣羽織、笛と太鼓を鳴らし行進する姿は、時代祭の先達だけでなく、

千年の歴史を持つ京都に、新しい近代化の息吹を吹きかけたという意味での先達でもありました。

その「維新勤王隊列」のモデルである山国隊は、なぜか、幕末維新の中でも影が薄く、京都の人でもその活躍を知らない人も多いのが現実です。

  

しかし!

この山国隊は、まさに地元京都が誇るべき幕末のヒーローであると確信しています。

平安京造営の木材を供給していた山国郷は、古くから皇室との関係が深く、山国一円は太閤検地(豊臣秀吉の時代)まで禁裏直轄(皇室)の荘園(所有地)でありました。

山国隊の隊士達は山で生計をたてていた民であり、その多くが筏士で、

筏で鍛えた肉体に、山の猟で身に着けた射撃の技術は高く、

農民兵でありながら、常に最前線で戦いました。

あの新撰組の近藤勇の軍隊とも激闘を繰り広げたほどです。

鉄砲の射撃は優れていても、剣術はずぶの素人だったので鳥取藩の剣術指南役の北辰一刀流の千葉重太郎から剣術をならいました。

千葉重太郎とは、父が千葉定吉で坂本龍馬も彼ら親子に剣術をならったことは、あまりにも有名な話しです。

ここまででも歴史ファンならたまらない話しでしょう。

長くなりそうなので、ここでいったん終わります。

次は、山国隊の組頭藤野斎(ふじのいつき)について書きます。

この藤野斎の話しは、日本の映画の歴史に大きく関わります。

乞うご期待!!

つづく

(さいたに屋)

  

  

  

  

  

  

また

  

  

  

  

 

  

  

 


光秀・秀吉・高虎 その一  (姫路城の弱点)

2010.10.15

10月9日(土曜日)

この日、僕は午前中に船の仕事を終え、

「先人に学ぶガレリアフォーラム」

丹波亀山400年

『光秀・秀吉・高虎』

~丹波亀山城をめぐる天下の動向~

に行ってきました。

丹波亀山城に関わる、初代城主明智光秀、重要拠点とした豊臣秀吉、五重の層塔型天守を完成させた藤堂高虎の動向、さらに天守の構造、石垣など、丹波亀山城への歴史を認識を深める場とすることを趣旨とした歴史シンポジュームです。

【パネルスト】

三浦 正幸 さん (広島大学大学院教授)

藤田 達生 さん (三重大学教育学部教授)

永光 寛 さん (亀岡市文化財保護委員会委員

【コーディネーター】

黒川 孝宏 さん (亀岡市文化資料館館長)

 

まず、三浦正幸さんからは、藤堂高虎による築城の特徴、丹波亀山城全体について述べられ、

工学博士で1級建築士でもあり専門が日本建築士・文化財学であることから、藤堂高虎の建築技術を研究発表されました。

その中で丹波亀山城の天守は、その当時、日本最高装置の戦闘天守であることともに、層塔型天守の初期の城として、現存しないことは日本建築の歴史の遺産として実に残念であると述べれました。

特に、僕が面白いと思ったのは、

望楼方である姫路城の天守の弱点を指摘されました。

上の写真は姫路城天守の梁間断面図なのすが、姫路城天守の三階床を見てください。

左の方に階段が見えますが、これが姫路城天守の弱点・欠陥建築だそうです。

 

なぜ、窓ぎわに階段があるかというと、

望楼型天守とは、簡単にいうと、櫓を積み上げていく建て方で、

姫路城のような大きな櫓を持つ天守は、屋根が必然的に大きくなり窓が高くなってしまします。

天守とは、

もともと、敵を見張るためのやぐらであり、戦闘を指揮したり、もちろん、弓や鉄砲などを下の敵に撃ったりもするように考えてあります。

窓が高いと、当然不便であり、360度見張るためには、この階段は非常に不便であったのです。

日本で初めて建築された層塔型天守であるとされる丹波亀山城は、

姫路城天守の弱点を克服されており、屋根側の梁をずらして、床を上げるています。

これにより、「武者走」という360度見回ることができるようになり、

この丹波亀山城の形態は、江戸城にも採用されました。

江戸城は、最後の戦国時代の覇者、徳川家康が建てた城でありますが、

家康は、その経験を駆使し、丹波亀山城と同じ形態の天守を採用したことは、

江戸城こそ、最強の要塞であるというこであり、

丹波亀山城は、そのさきがけであったわけです。

 

三浦さんは、

戦略的にも丹波亀山城の価値を述べられ、

1610年に丹波亀山城が再建築されたことは、

大坂城の豊臣方への包囲網になったわけですが、

その後、京都の隣の丹波亀山に、最強の天守を持つ丹波亀山城があることは、

260年の徳川幕府を安泰させた要因の一つにもなるとされ、

この時代、全世界的にも日本は類を見ない文化の発展を果たした

と、豪語されました。

 

確かに、江戸時代は、日本の

国力を大きく発展させたことは間違いなく、

例えば、江戸の都市は人口100万人いたとされ、全世界で一番人口の多い都市でありました。

また、江戸・京都・大坂は、特に当時世界一番の清潔な都市に並べられ、平均寿命の高かったのです。

 

その第一の要因として、260年間大きな戦争もなく、平和であったのは、

家康が、外様大名などにむけて、堅強な城を各地に建築したことが上げられます。

 

その一つが丹波亀山城だったのです。

 

さいたに屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 


保津川の不動明王

2010.10.07

保津川の渓谷を入り、500メートルほど下ったところに金岐(かなげ)の瀬という場所があります。

ここには不動明王像が祀られており、私達保津川下りの船を見守り神として立像されておられます。

 

保津川下りの船からもこの不動明王像を拝むことができ、

右手には剣、左手には羂索(けんじゃく)を持ち牙をむき出しした厳しい形相でおられるとても立派な石像です。

この不動明王が、いつ誰

の手で建てられたかは不明ですが、昔からの船頭から言い伝えられている話しがあります

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 この不動様が発見されたのは、明治32年に鉄道が開通して米国の音楽隊がパレードの参加した時である。

その日は前日の豪雨で水嵩(かさ)が増して川下りは船止めとなっていた。しかし、音楽隊の一行は無理やり船を出す

ように船頭に命じ、山本浜から出発した。ところが舟はこの金岐(かなげ)の瀬辺りで岩にぶつって遭難したのだ。

船頭二名を含む合計十二名が犠牲になった。

 その後、川中を捜索していてのこの不動様が沈んでおられたのを発見したのである。そこで船頭衆がもったいなく思い、

川の守りにと岩の上に祠り崇拝してきた。水害の対策として岩の削平によって現在地に移したのである。

 

以上「ふるさと保津」より

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実は、この遭難の事件の話しの正確な記録などは残っていません。

1984年に昔の船頭にインタビューしてまとめた著書「保津川下り 船頭夜話」の中では、ある京都の観光バス会社のガイドが

記録していたのを教えてもらったとあります。

 

しかし、その長き時をへて、次の世代の船頭衆に戒めとして、代々の先輩船頭から口から口へと語り継がれてきたのでしょう。

 

今でも、毎年10月8日には保津川下りの船頭衆は、この不動明王像に安全祈願のため参拝しております。

そのためかどうかわかりませんが、その後にお客さんの死亡事故はいっさいなく、不動明王像のご加護によるものかもしれません。

そして、何より、私達保津川下りの船頭が、自然の中で仕事をさせていただいているという謙虚さをわすれず、

絶対安全の船下りをお客さんに提供することをお約束します。

 

金岐の瀬の不動明王像は、そのことを教え続けている象徴であることは間違いありません。

 

(さいたに屋)

 

 

 

 

 

 

 


保津川下りから坂本龍馬を仰ぐ

2010.09.29

この写真は、保津川下りから渡月橋をもているところです。

渡月橋の向こうに側に東山が見えます。

この写真がしめすあたりに霊山(りょうぜん)があります。

東山の霊山には、坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの墓があり、

今や大河ドラマの影響もあることから、大変多くの人々が訪れています。

私が、「さいたに屋」というペンネームにしているのは、

坂本龍馬の家の屋号が「才谷屋」(さいだにや)で、

また、龍馬自身が幕府から取り締まりされていた時に、

「才谷梅太郎」

という偽名をつかっていたところからです。

常に私が嵐山で東山を仰ぐとき、

坂本龍馬・中岡慎太郎は、いまの日本を見守ってくれている!

と思うのです。

 

幕末の時代、多くの人々の血がながれました。

倒幕側も幕府側も、どちらも日本を憂い戦い、そして、命をおとしました。

  

 このような歴史を通って、今、私達は生かされているのだ!

と思います。

坂本龍馬や中岡慎太郎、

そして、多くの先人達に恥ずかしくない日本にしていかねばなりませんし、

未来の子供達に、平和な世の中を引き継いでいかねばなりません。

 

【京都霊山護国神社】【霊山歴史館】

●アクセス/京阪「祇園四条駅」下車、徒歩15分

京都駅から市バス206系統で「東山安井」下車、徒歩7分

京都霊山護国神社 拝観料300円

問い合わせ/075-561-7124

 

霊山歴史館 拝観/大人700円

問い合わせ/075-531-3773

 

 

(さいたに屋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


丹波亀山城築城400年

2010.09.16

 

(三田村顕教撮影 亀岡市文化資料館提供)

この写真は、明治5年(1872)に撮影された丹波亀山城の天守です。

昔、亀岡には亀山城という城が存在しました。

(亀岡は明治2年、三重県の亀山と混同するので亀岡と改称されました。以後、亀山(亀岡)城を「丹波亀山城」と書きます。)

慶長15年(1610)、天下普請により層塔型の五重の天守が築かれました。

(「天下普請」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、城郭・城下などを建設させることで、江戸城や名古屋城なども「天下普請」に」より造られました。)

丹波亀山城は、天正3年(1575)に明知光秀により築かれました。

この時は、織田信長の命により丹波平定の足がかりとして。

その後の慶長15年(1610)の五重の天守をはじめとする改築は、明らかに豊臣(大坂城)包囲網としての戦略的背景がありました。

北に保津川を背に南に城下町が広がります。

 2010年の今年は、丹波亀山城の天守閣が完成して400年を迎えます。

今年、亀岡市内では、各種いろいろな行事が開催されております。

http://www.kameokacci.or.jp/Kameyamajyo400/event/index.html

http://www.takarush.jp/promo/kameoka/

  

 10月9日にガレリアかめおかにて、

丹波亀山築城400年

「光秀・秀吉・高虎」(丹波亀山城をめぐる天下の動向)

歴史フォーラムが行われます。

丹波亀山城の基礎を築いた明智光秀。

亀山(亀岡)を重要な都市と考えた豊臣秀吉。

 城づくりの名人・藤堂高虎

について語られることでしょう。

藤堂高虎(1556年~1630年)

藤堂高虎は、戦国武将の中で「築城の名手」といわれています。

丹波亀山城では、五層の天守、大手門、外堀などを築城普請を担当しました。

 

 

この丹波亀山城ですが、明治10年(1877)に天守以下を取り壊されてしまいます。

これには、翌年明治11年(1878)の明治政府に反抗する西南戦争が勃発しているように、この時代は反政府の機運が全国に高まっており、その政治的情勢により明治政府は全国ある多くの城郭を廃城処分しています。

※今や、世界遺産になっている姫路城すら、当時廃城処分される候補にされていたほどです。

 

現在、丹波亀山城跡は、宗教法人大本が所有されており、本部受付で了解してもらえば本丸下まで見学できます。

敷地内は今、多くの木々に覆われ、また、ひっそりと静寂な空気に包まれおり、戦国時代に戦いの要塞として築城された丹波亀山城は、静かに眠りについているかのようです。

それは、私達に戦いのない平和な世の中をつくるようにと教えてくれているのかもしれません。

 

亀山城跡は、JR亀岡駅から南に徒歩10分。

まさに、

「つわものたちは 夢のあと」

な場所です。

  

(さいたに屋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大文字五山送り火

2010.08.13

 

 

 

8月16日には京都のお盆行事の一つ、大文字五山送り火。

通称

「大文字焼き」

が行われます。

東から「大」「妙・法」「舟形」「大」「鳥居形」の文字や型通り焼かれ、そのかがり火が京都市内を取り囲んで夏の夜空に浮かび上がります。

 

 

 

 

今日は、その大文字焼き五山送り火についてマニイアックに書きたいと思います。

 

今や、京都の夏の風物詩となり、葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大大行事の一つとされ、毎年、多くの人々が内外から訪れます。

この大文字五山送り火は、8月13日の迎え火(精霊迎え)に対する大切なお盆の行事であり、ふたたび祖先の霊を安らかに冥土へ送る意味を持ちます。

大文字焼きの起源は三説ほどあり、

★ 一つは平安初期、大文字山麓の浄土寺が大火に見舞われた際、本尊阿弥陀仏が飛翔して空に光明を放ったといわれ、弘法大師がその光明を模倣して火を用いる儀式といて行ったという説

★ 二つめは室町時代中期、足利義政が近江の戦いで死亡した実子、義尚(よしひさ)の冥福を祈る行事を行うよう命じ、相国寺の僧侶、横川景三(おうせんけいさん)の指導で始まったという説

★ 三つめは江戸時代初期、能書家である近衛信尹(のぶただ)の筆画の説

 というような説がありあすが、さだかではありません。

 資料的に確認されているのは江戸時代前期以降しかなく、それ以前の記録を確認することが出来ません。

そんな大文字焼きも第二次世界大戦の時は中止されていました。

しかし、地元の小学生の児童らが白いシャツを来て山を登り、人文字で「大」を描いたこともあります。

それだけ、京都の人々にとって大文字焼きは昔から大事にしてきた宗教行事であり、愛するべき伝統・文化であることは間違いありません。

 

では、五山点火時間をご紹介しましす。

 

 

 

 大文字(如意ヶ嶽)

20時00分点火

 

 

 

妙・法

20時10分点火

 

 

 

舟形

20時15分

 

 

 

 

 

 

左大文字

20時15分

 

 

 

 

 

鳥居形

20時20分点火

この五山はすべて京都御所の方向をむいています。

昔の御所は、今の千本丸太町の辺りで、今でもその近辺の某会館の最上階から全ての五山焼きが見れるそうです。

 

なにより、亡き人のことを想い、家庭安恩・世界平和を祈りたいものです。

 


祇園祭の謎 

2010.07.07

 コンコン・チキチン・コンチキチン♪(^・^)ノ⌒☆

と祇園祭の祇園ばやしの音が響けば、京都の夏が始まります。

祇園祭は、

日本三大祭のひとつで、千百年の伝統を有する八坂神社祭礼で、

 

古くは、祇園御霊会と呼ばれ、869年(貞観11)、

京の都をはじめ全国的に疫病が流行したとき、人々はスサノオの祟りと考え、

神泉苑で当時の国の数66カ国にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(スサノオの本垂)祭り、神輿で出して災難を除去を祈ったのが始まりとされます。

 

970年(安和3)から毎年行うようになり、室町時代になり、四条室町を中心とする町衆たちの自治組織によって祇園祭の山鉾を作って巡行されるようになりました。

その後、応仁の乱や第2次世界大戦などでの中断はあるものの、千年以上の歴史を誇る祭りとして続き、京都のみならず日本を代表する祭りとなりました。

 

今日は、その祇園祭の謎に迫りたいと思います。

その謎とは、祇園祭がイスラエル(ユダヤ民族)との関係があるという説をご紹介したいと思います。

 祇園祭では、それぞれの山鉾で厄除けの「ちまき」をいただきますが、

そこには、

「蘇民将来之子孫也」

と書かれており、このちまきを家の玄関にかざるとスサノオの災いから逃れられるという言伝えから、この風習が伝わります。

このことは、『釈日本記』にある『備後風土記』から伝わるようです。

ちょっと、ご紹介しますと

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むかし、むかし、

あるところで、スサノオが泊ま宿がなく困っておりました。

スサノオは、ある裕福な巨旦将来の家に行き宿を求めましたが、

巨旦将来は、「食べ物もなければ部屋もない」とスサノオを追い払いました。

そこでスサノオは、巨旦将来の兄、蘇民将来の家に立ち寄ったところ、

蘇民将来の家は貧しいながらも、スサノオをこころよく迎え入れましたので、

スサノオは、そのお礼に「蘇民将来の子孫」と書いた茅の輪を門前に飾れば難を逃れられると約束しました。

その後、蘇民将来の家は代々栄えましたが、巨旦将来の家は、災いや疫病により子孫は絶え滅びてしまいまいした

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こ門前に茅の輪の伝説が伝わり、祇園祭の「ちまき」の風習となったわけです。

さて、この伝説のお話しは、実はイスラエルの「過越祭」の内容が酷使しているといわれています。

 

これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷となり苦しんでいた時、神がモーゼに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因し、その神の救いを記念して「過越祭」が行われています。

 

「蘇民」という言葉も「民が蘇る」という意味でもあるので、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しんでいたところを、民の誇りを蘇るという意味にも読み取れます。

また、祇園祭のメインイベントである『山鉾巡行』は7月17日に行われます。

この7月17日というのは、ノアの箱舟が地上に降りた日でもあり、

そいえば、祇園祭でも船を模様した『船鉾』があります。

祇園祭の「ギオン」という言葉を古代ユダヤで行われていた「シオン祭」からきているともいわれています。

山鉾にはタペストリーが前掛けといてつけられていますが、

この上の写真「水を供するリベカ」は、ユダヤの教典・タナフの中の一節に描かれており、

このタぺストリは、ベルギー・フランドル地方で製作さらたもので、1718町内に住む豪商・沼津宇右衛門によって函谷鉾に寄贈されました。

1718年は江戸時代で、「暴れん坊将軍」で有名な 8代将軍徳川吉宗の時代です。

この時代はキリスト教が禁止されていたので、聖書などは禁書だったのでタナフの一節の絵を飾るということはご法度だったはずです。

それなのに祇園祭に用いられていたということは不思議なことなのです。

 

また、久慈力氏の著書『祇園祭の大きな秘密』の中で、

「祇園という言葉は、日本語でも中国語でも韓国語でも説明がつかない。インドの言葉で説明されても納得いかないだろう」

と述べています。

祇園、「ギオン」という言葉が古代ユダヤの「シオン祭」から来ているという説で、「シオン」とはエルサレムの別名で、ヘブライ語で「ツィオン」と呼ばれ、英語圏に入り「ザイオン」とか「ジオン」となり日本に来て「ギオン」となったというのです。

 

つまり、

日本は古来、イスラエル(古代ユダヤ)の影響を受けてという証拠であり、永きにわたる時間を通って、今の私たちの生活に根づいてきたという説なのです。

 

もちろん、この説は日本の歴史学会で信憑性のないことから認知されていません。

しかし、このような時代の流れは、証拠になる書物などで判断されるものでなく、

当時から続く祭りや風習などの共通点などを検証することが大事だと思います。

 

この日本と古代ユダヤについては、平安時代に巨大な権勢をほこっていた

「秦氏」

についてこの後のブログで述べていきたいと思っています。

日本版『ダビンチ・コード』のような説となるでしょう。

お楽しみに…

なお、

保津川下り着船場(嵐山)から祇園祭へは、

★JR嵯峨嵐山駅から二条駅へ、二条駅から地下鉄東西線で烏丸御池駅下車

 ★阪急嵐山駅から桂駅へ桂駅から四条烏丸駅下車

★京福(嵐電)嵐山駅から四条大宮駅下車

が便利だと思います。

  

【 祇 園 祭 】

7月13日(火) 鉾建

7月15日(木) 宵々山 歩行者天国 午後6時~11時(予定)

7月16日(金) 宵山   歩行者天国 午後6時~11時(予定)

7月17日(土) 山鉾巡行 午前9時から

  

●祇園祭に関するお問い合わせ/京都市観光協会 TEL(075)752-0227

※なお、祇園祭の問い合わせだからといって、この祇園祭とユダヤの関係性を尋ねられませんように…u(uu)u

聞きたい方は、保津川下りをしに来て、船頭さいたに屋にお尋ね下さい。

 

(さいたに屋)

  

 

 

 


金閣寺が焼失して60年

2010.07.02

さて、問題です。

この写真の場所はどこでしょう?

 

銀閣寺?

にも見えなくはないですね。

 

答えは、金閣寺です。

 

え、金閣寺!

全然、金色じゃないやん。

と思われるでしょう。

 

そうなんです。

現在の金閣寺は昔から現存する建造物ではなく、1955年に再建されたものなのです。

金閣寺は、1950年7月2日、放火により当時国宝であった金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等が焼失しています。

 

金閣寺が焼失して、今日は60年になります。

 

【 金 閣 寺 (舎利殿)】

金閣寺は通称名で、正しくは鹿苑寺といいます。

創建年 1397年(応永4年)

開基 足利義満(三代室町幕府将軍)  開山 夢想疎石

 

もしも、1950年に焼けていなければ、応仁の乱以前に建てられ現存する建造物となるはずでした。

1200年の都といわれる京都ですが、応仁の乱以前の建造物は数少なく、今に残る多くの寺社仏閣は応仁の乱以後に建てられたものが多いのです。

 

 

1950年

7月2日未明、金閣寺の学僧(当時21歳)により放火され金閣寺は全焼。

幸いにも人的被害はありませんでしたが、国宝の舎利殿や足利義満木造(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点が焼失してしまいました。

この事件を「金閣寺焼失事件」といい、世間を大変震撼させました。

 この事件を題材に、三島由紀夫『金閣寺』や水上勉『五番町夕霧楼』で小説となり、水上勉は、その後、各方面の取材を続け1979年にノンフィクション『金閣寺炎上』を出しました。

 

金閣寺は焼失して5年後、国や京都府の支援、地元の経済界などの浄財により再建され、明治期の大修理の際に詳細な図面が作成されていたので、きわめて忠実に建てることが出来ました。

 このように焼失してしまった金閣寺でありましたが、金閣寺を愛する多くの人々の手により再建され、金色の光を取り戻し現在の私たちを魅了し続けています。

 

さて、

保津川下りと金閣寺は大変アクセスリンクしやすいんですよ。

これは、京都の人でも気づく人は少ないです。

 

保津川下りの終着点嵐山(渡月橋200メートル上流)から、京福(嵐電)『嵐山駅』から『北野白梅町駅』に乗り、(約20分)

北野白梅町駅から北へ徒歩15分で行けます。

 

近いです!!

 

保津川下りと金閣寺

こいう観光もいかがでしょうか?

 

(さいたに屋)


保津川なう
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