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雨で順延、今年の葵祭

2012.05.15

毎年5月15日は、京都では『葵祭』が行われます。
今年は雨のため、明日16日に順延されます。

葵祭は、下鴨神社と上賀茂神社の例祭であり、京都三大祭のひとつとして知られいます。

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この祭は、平安時代の装飾に身をつつんだ500人を超える行列が雅やかに、また風流に巡幸されます。

巡幸コースは、

●京都御所出発 (午前10:30)

●下鴨神社着 (午前11:40)

●下鴨神社出発 (午後2:20)

●上賀茂神社着 (午後3:30)

●上賀茂神社 祭儀式終了 (午後6:30)

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葵祭の起源は、

今から1400年前、欽明天皇の時代に凶作が続きました。

占ったところ、賀茂大神の祟りであり、その怒りを鎮めるために、4月の吉日(明治維新後5月15日となる)神鈴をつけた馬を走らせて祭礼を行ない、五穀豊穣を祈願しました。これが葵祭の始まりといわれています。

1000年前の物語、世界最古の長編小説『源氏物語』の

「葵」の巻の賀茂祭(葵祭)を舞台としています。

そこでは、

共に主人公光源氏を愛して女性ふたりの争いの場面として有名で、

六条御息所と葵の上の一条大路の車争い。

行列に参加していた光源氏を見物しようと葵の上の牛車と六条御息所の牛車の場所取りのいざこざで、

結局、本妻である葵の上の車が六条御息所の車を追い出してしまいます。

これに怨みを持った六条御息所は生きた怨霊となり、後に葵の上を呪い殺してしまします。

あ~、女性ってこわい(><)

さてさて、葵祭は京都御所から下鴨神社・上賀茂神社という約8キロという長い巡幸です。

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一日中のお祭ということもあり、どうか、葵祭を見物して保津川下り。

もしくは、保津川下りをして葵祭を見物。

このどちらかをオススメします(^0^)/

そして、ぼくは、

世の女性が、六条御息所のようにならないことを祈願します(汗)

それでは、悠久の京都の歴史をあじわいながら、保津川下りをお楽しみください(^O^)/

(さいたに屋)


安井金比羅春季大祭

2012.05.10

最近、京都のパワースポットが大変人気を博してますが、

その中でも恋愛や人間関係などの縁を断ち切るという変わった神社があります。

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安井金比羅宮

八坂神社の祇園石段下から、ちょっと南に下がったところにあります。

ここには、ちょっと奇妙な物が…

縁切り縁結び碑(いし)

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高さ1.5メートル、幅3メートルの巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれています。
しかし、その巨石が見えないほどの、おびただしい御札が(((o(*゚▽゚*)o)))

もちろん、普通に
「結婚ができますように」
お願い事もありかますが、

「あの人と別れられますよに」
とか…
「あの人が、恋人と別れますように」といった事まで、様々なお願い事を書いた御札(形代(カタシロ)身代わりのおふだ)がはられています。

どの様にお願いするかというと…
まず、御札に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。
最後にお札を碑に貼って祈願します。

さて、
今日5月10日は、この安井金比羅宮で春季大祭がおこなわれます。

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春の火焚き祭ともいわれ、火焚き祭参拝者達が炎の中に護摩木を投げ入れ、あらゆるお願いごとを祈願する祭です。
また、抹茶の野点席(招待者のみ)や模擬店なども出店します。
市バス/東山安井、徒歩3分。問合先:安井金比羅宮075-561-5127。
見学自由。

では、では、
悠久の京都の歴史をあじわいながら、保津川下りをして、安井金比羅宮にお参りください(^O^)/


保津川下る落差は、東寺の五重塔と同じ高さ(^O^)/

2012.05.09

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亀岡から嵐山までの16キロを下る保津川下りは、
なんと約50メートルの落差があるといわれています。

(僕が持っているiPhoneの標高がわかるアプリでも、だいたい乗船場が標高90メートル〜嵐山下船場40メートルぐらいを示します)

亀岡〜嵐山区間の落差50メールといって、

「な~んだ、50メールしか落差がないんだぁヽ(´o`;」

といってはいけません

50メートルというと

なんと、東寺の五重塔と同じ高さなのです。

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つまり、
東寺の五重塔のてっぺんの高さが保津川乗船場と同じ高さであり、

16キロかけて、五重塔とだいたい同じくらいの高さを保津川を船で下っているわけです!

なんか、京都浪漫を感じませんか(#^.^#)

そんな、東寺の国宝の五重塔 初層が特別拝観されております。

会期:2012年4月27日(金)〜5月25日(金)までです。

京都のランドマークともいえる、国宝 五重塔は、正確には高さ55メートル。木造の建築物として日本一の高さを誇ります。
「え⁉ 5メートル誤差があるじゃない(♯`∧´)」

と、細かいことはいわないように(#^.^#)

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今の五重塔の創建は寛永21年、1644年。長い歴史のなかで、何度も失われ、くり返し再建されてきました。現在の五重塔は江戸時代、徳川家光によって再建された五代目にあたります。

ちなみに、幕末時の鳥羽伏見の戦いで西郷隆盛が、この東寺の五重塔に五層目から、戦さの指揮をとったそうです。

普段は非公開となっている初層内部には、極彩色に彩られた密教空間が広がっていますが、
そもそも、東寺は「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)といい、
延暦15年(796年)に弘法大師空海が創建しました。

護国寺とは、「国を護る寺」つまり都
京都を護る寺だったのです。

今から考えれば科学技術が発達していない時代、
この東寺五重塔は、京都を護るための装置だったといえば、わかりやすいかもしれません。

さて、東寺ということは、当然、
西寺
がありました。

しかし、西寺は、その昔に焼失し、今は跡地しか残していません。

そのことは、また、後日に書きたいと思います。

では、では(#^.^#)

悠久の京都の歴史をあじわいながら、保津川下りを楽しんでください(^O^)/

(さいたに屋)


時代祭 弓箭組

2011.10.23

10月22日は、京都三大祭の一つである

「時代祭」

が行われるはずでしたが、

今年は、天候不順で23日に変更されおこなわれます。

この保津川下りの歴史ブログでは、以前「山国隊」のことを書きましたが、

http://www.hozugawakudari.jp/history-blog/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD%E3%81%AE%E5%85%88%E9%81%94%E3%80%80%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E9%9A%8A

 

今回は

「弓箭組」(きゅうぜんぐみ)

ついて書きたいと思います。

 

弓箭組とは、丹波国南桑田、船井両郡に昔兵庫頭源頼政に従い、弓箭の技に秀でた集団組織で、

簡単にいうと、地侍や郷士で組織された武装集団といえばわかりやすいかと思います。

 

起源が桓武天皇が平安遷都の際、その御列の護衛に当たったともいわれ、時代祭では、その平安期の列隊がモデルとなっております。

 

その後も、南北朝時代に活躍したり、大坂の陣に参加したりしましたが、次第にその活躍する場がなくなり、土着に帰農し百姓の生活をしておりました。

 

しかし、江戸時代、百姓でありながら苗字帯刀を許され、武術・学問に励み、特に弓術に優れ、その武勇の誉れはけして忘れられることはなく、その血脈ともいえる弓箭魂は代々引き継がれていきました。

そして、

明治維新の慶応四年、弓箭組は、新政府側で西園寺公望率いる山陰鎮撫隊に合流し、丹波亀山半を恭順帰属に働き、官軍に大きく貢献。

その後も園部、山家を経て山陰街道を鳥取付近まで進軍したといいます。

この弓箭組の中心人物に中川禄左衛門がおり、その孫が立命館大学の創始者である中川小十郎で、

弓箭魂は、武術から学問へと以降し、近代日本の礎の一役を担うのです!

時代祭では、弓箭組の末裔の人々が中心となり参加されているので、亀岡からの参加となり、

祭り行列の最後を締めます。

 

時代祭コースと時間

京都御苑建礼門前(正午)⇒堺町御前⇒烏丸丸太町⇒烏丸御池(午後12時50分ごろ)⇒河原町御池⇒三条大橋東詰⇒東山三条⇒三条神宮道⇒平安神宮応天門(午後2時30分)

そして、保津川下りもお忘れなく(^^)>

(さいたに屋)

 

 

 


ヤタガラスと烏相撲

2011.09.08

 

上賀茂神社では、
日時 2011/9/9(金) 重陽神事に引き続き(10:45頃)に烏相撲がおこなわれます。

サッカー男子日本代表や、なでしこJAPANのシンボルマークである「八咫烏(ヤタガラス)」は、

神武天皇東征のおり、熊野の地で天の使いの八咫烏が道案内をして大和平定の手助けをしたといわれています。
京都では、八咫烏の化身である
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
を下鴨神社に祀り、
 
その孫にあたる
賀茂別雷大神(かもわけいかづちのみこと)
上賀茂神社
を祀ります

烏相撲は、賀茂族の祖先が神武天皇の遠征を先導した八咫烏(やたがらす)だという故事に由来する。
刀祢(とね)と呼ばれる役が「カーカーカー」「コーコー」とカラスの鳴き真似で受け答えをするユーモラスな神事や、禰宜方(ねぎかた)、祝方(ほうりかた)に分れ、子供の奉納相撲が行われます。

熊野の地と京都賀茂の地とは、太古から大変ゆかりのある地域であります。
今回、台風12号により犠牲にあわれた方々のご冥福と、一刻も早く行方不明の方々の救出されることを祈り、神々のご加護がありますこと祈願したいものです。

※重陽祭(ちゅうようさい)は、中国では、奇数を縁起の良い「陽」として、奇数で一番大きな数字9月9日を「重陽」といい、縁起の良い日とされ、この日に菊酒を飲むと災厄を逃れるといわれており、別名「菊の節句」と称されます。
ちなみに、この祭儀は平安時代から宮中で秘中の儀式とされました。

(上賀茂神社) 075-781-0011
ホームページ
賀茂別雷神社(上賀茂神社) http://www.kamigamojinja.jp/

賀茂別雷神社(上賀茂神社) 075-781-0011
ホームページ
賀茂別雷神社(上賀茂神社)  http://www.kamigamojinja.jp/


高瀬舟を知ってますか?

2011.07.01

保津川下りの船は「高瀬舟(たかせふね)」といいます。

僕たち、船頭たちが保津川下りの船の名称を説明するとき…

これが、なかなか説明しにくいんです(^^;)

    【高瀬舟(木造船)】

 文学に詳しい人なら森鴎外の『高瀬舟』で、ご存知の方もおられるでしょうが、

僕ら船頭が、

「保津川下りの船のタイプは、高瀬舟なんです。」

と言っても、

だいたいのお客さんは、

「タ・カ・セ…?なにそれ…?」

というような感じで、

なかなか理解してもらえません。

「高瀬舟」は、江戸時代の船の百科事典『和漢船用集』において

「船首、船尾が高く上がり、喫水線が浅い船底の広い船箱である。」

というようなことを胆略的説明しても…

 

ちょっと、難しいですよね…(><;)

 

そこで、今日は「高瀬舟」について書きたいと思います。

 

まず、「高瀬舟」をウィキペディアで検索すると…

「高瀬舟は河川や浅海を航行するたまの船底の平ら木造船である。

室町時代末期頃の岡山県の主要な河川(吉井川、高梁川、旭川_(岡山県)等)で

使用されはじめ、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。」

 

と、このように書かれていますが、

これが、ちょっと間違いなんです!

 

高瀬舟は、遅くとも平安時代には使用されていました。

その証拠に平安時代の和歌に次のような歌があります。

 

高瀬舟 しぶくばかりに 紅葉ばの 

       ながれてくだる 大井川かな

                 (新古556)

                 藤原家経(992年~1058年)

【通釈】高瀬舟がとどこおってしまうほど、大井川には紅葉が川面を満たして流れ下ってゆくよ。

という和歌があります。

(大井川とは、嵐山の大堰川で、つまり保津川です。もしかしたら、平安時代版の保津川下りかもしれません。)

また、『日本三代実録』元慶8年(884)に

「令近江(おうみ)丹波(たんば)両国、各造高瀬舟三艘(そう)(近江・丹波の両国をして各高瀬舟三艘を造らしむ)、

其二艘長三丈一尺広五尺、二艘長二丈一尺広五尺、二艘長二丈広三尺、送神泉苑(神泉苑(しんせんえん)に送る)」

とも記録され、もしかしたら、この舟が保津川を下ったかもしれません。

(現地(丹波)で製造した舟を陸で運ぶというのは、ちょっと大変です…)

『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(931~938ころ)には、

「艇小而深者曰(たかせ)」(艇(てい)という記録もあります。

 

 ウィキぺディアで述べられているように、岡山県で物資を運ぶ舟は盛んにおこなわれており、

     【岡山県・吉井川の高瀬舟】

 吉井川で流されていた高瀬舟が保津川下りの高瀬舟の起源といわれています。

 

   【角倉了以(すみのくらりょうい)】

慶長9年(1604)に了以が美作・備前に流れる吉井川(和気川)に往き来る高瀬舟を

見て、保津川にも舟を流せると考えたのが切っ掛けで、

 

【林羅山著 河道主事嵯峨吉田了以碑銘 (大悲閣千光寺)】

上の写真の石碑は、角倉了以の業績を記した碑に詳しく書かれています。

了以が

「凡そ(おおよそ)百川、皆以って舟を通すべし」

と考え保津川(大堰川)を開削しようと思いついたことが、

慶長11年(1606)に保津川の舟運を疎通させることとなります、

おおかた荷物船とされていますが、記録では、

元禄7年(1694)に刊行された『西鶴織留』の一節に

「保津川のながれは、丹波亀山につづきて、嵯峨ままで二里あまりの所、

近代切ぬきの早川、是を自然と乗覚て、岩角よけて滝をおとし、ひだりは、

愛宕、右は老の坂、此山間のの詠め、松嶋をちかふして見るぞかし。」

また、『丹波史』には、

「保津ノ浜ヨリハ人ヲモ乗セ下ス」とあり「嵯峨マテ一人一升ナリ」

とありますので、人が乗客していた記録も残っています。

 保津川の木造高瀬舟は、1972年(昭和47)に

木造船からFRP船へと変更していき、しだいに姿を消していきます。

しかし、2009年に亀岡の市民グル-プ

「保津川の世界遺産をめざす会」により40年ぶりに復活し、

保津川を下りました。

今後、この高瀬舟に活躍してもらいたいものです。

どうですか?

元祖高瀬舟で、下ってみませんか?

 (さいたに屋)

 


愛宕山をめぐる神と仏

2011.06.23

 

保津川下りの乗船場からの風景です。

ここから川の方を見ると、バックに

愛宕山(あたごさん)

が望めます。

愛宕山は、僕ら保津川下りの船頭が最初にお客さんに案内説明しますが、 

実際京都の嵐山は愛宕の向こう側になるので、お客さんに嵐山の方向をしめすのに非常にわかりやすいのです。

 京都観光に来たら北西の方向を見てみてください。

ひときわ高い山が愛宕山です。

標高924m、京都では最高峰の山で、丹波(亀岡)と山城(京都)にまたがってそびえたっています。

この愛宕山の頂上には、

「愛宕神社」

があり、

火廼要慎(ひのようじん)」」

の神様で、京都では古くから信仰の対象とした「霊山」です。

特に江戸時代に愛宕山に参詣する人々が多く

「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、愛宕さんへは月参り」

とうたわれるほどでした。

怖いものに「地震、雷、火事、おやじ」といわれていた時代なので、「火」をつかさどる愛宕山は、防火の神として京都の人のみならず、日本中に「愛宕信仰」がひろがり、

今でも全国に800箇所を超える神社があります。

京都の家庭では、台所に「火廼要慎(ひのようじん)」のお札だ貼れており、飲食店の厨房などにも貼れていることが多いのです。

【愛宕神社の祭神】

本殿

・伊弉冉尊(いざなみのみこと)

・埴山姫神(はにやすひめのかみ)…土の神

・天熊人命(あめのくまひとのみこと)…稲司の神

・稚生霊神(わくむすひのかみ)…生産水の神

・豊受姫命(とようけひめのみこと)…五穀の神

 若宮

・雷神(いかづちのかみ)

・迦遇槌命(かぐつちのみこと)…火の神

・破无神(はむしのかみ)…土の神

奥宮社

・大黒主命(大国主命)以下十七柱

  

というように神様が大変多いですが、火をつかさどる神は迦遇槌命(かぐつちのみこと)であり、「アタゴ」という名の由来も、

この迦遇槌命の伝承にある「古事記」や「日本書紀」から由来しています。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、火の神は迦遇槌命(かぐつちのみこと)を産み落とす際に、

迦遇槌命(かぐつちのみこと)が母親である伊弉冉尊(いざなみのみこと)を焼き殺してしまったことから、

生んでもらった恩を、仇で返すということから「仇子(あだこ)」、もしくは、「熱子(あつこ)」といわれて、

その後「アタゴ」と呼ばれるようになったといいます。

 

また、京都の人は北西(亥)を黄泉に続く方角と考えていました。

実際、8月16日に行われる「五山の送り火」の「鳥居方松明」は、愛宕山の方角を示しており、

これは古来、北西には出雲の国があるので、出雲が黄泉の国とされていました。

そういうことから、五山送り火では、死者の魂が船に乗り黄泉の国へと帰るという意味があり、

 京都の人々は愛宕山を「火」と「死」をつかさどる山として畏怖していました。

愛宕神社の由諸は、大宝年間(701-704)、役小角(えんのおづぬ)が白山信仰の開祖泰澄(たいちょう)を伴って神廟を造立したことから始まります。

その後、天応元年(781)に慶俊(けいしゅん)僧都と和気清麻呂(わけのきよまろ)によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀り、

中国の五山に模して山中に五寺を建立し、愛宕山の頂上(朝日岳)に白雲寺を建立しました。

       【和気清麻呂】

9世紀ごろには神仏習合の修験道の道場になり、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵を祀り、奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊天狗を祀っていました。

愛宕山に相対する、東山の比叡山は仏教の聖地として隆盛を極めましたが、愛宕山は日本の神道と仏教とが融合した山として信仰を高め、

勝軍地蔵は「戦いの神」として多くの戦国武将たちの崇敬を集めました。

例えば、大河ドラマで演じられていた直江兼続の甲冑の「愛」の前たては、愛宕大権現からとったものだとされますし、

明智光秀が本能寺の変を起こす前に、戦勝祈願のために愛宕神社でくじを引き、3度の凶の後、4度目で吉を引いた話しや、

翌日の愛宕百韻の「時は今 あめが下しる 五月哉」と歌を詠んだことはあまりにも有名です。

さらに、時代はさかのぼり、軍記もので有名な『太平記』では、

南北朝動乱をひきおこす悪霊としての天狗たちが日本転覆を企てている様子が描かれています。

愛宕の天狗たちのリーダーは太郎坊であり、日本全国の天狗の最高幹部としてしられていました。

ちなみに、平安時代に大火である「太郎坊焼亡」(1177年)は、愛宕山の太郎坊天狗からきています。

       【勝軍地蔵】

明治に入ると廃仏稀釈の政策で、愛宕山の寺は次々と廃絶され、勝軍地蔵は京都西山の金蔵寺に移されてしまいました。

この五山の中で現在残っている寺は、愛宕山の中腹(大鷲峰)の月輪寺と、高雄山の神護寺の二寺だけです。

神仏分離で仏寺を廃して、愛宕神社なり現在に至ります。

 

さて、そんな愛宕山をめぐる神と仏について佛教大学宗教文化ミュージアムで特別展示されています。

◆場所 〒616-8306 京都市右京区嵯峨広沢西裏町5-26

◆期間 2011年6月13日(月)~7月9日(土)

◆電話 (075)873-3115

◆入場料 無料

◆開館時間 午前10時~午後5時30分 ※入場5時まで

◆交通案内

●京都市バス59号系統(一部) 「広沢池・佛大広沢校地前」下車すぐ

●京都市バス10・26・59号系統 「山越」下車 西へ徒歩約13分

●京都市バス91・93号系統 京都バス81・83号系統 「広沢御所ノ内町」下車 北へ徒歩約8分

●嵐電 「車折神社」駅下車 北へ徒歩約15分

現在、なかなか観ることができない秘仏の元白雲寺にあった「勝軍地蔵騎馬像」や、京都京北の慈眼寺の「明智光秀坐像」など非常に貴重な文化財が観ることができます。

    【明智光秀坐像】(慈眼寺)

(さいたに屋)

 

 

 

 

  

 

 


伝源頼朝像 高尾神護寺

2011.05.02

(伝源頼朝像 神護寺蔵)

上の写真は見たことがあるでしょうか?

僕の小学校の時代には源頼朝と教えてもらいました。

しかし、最近では「伝」がつき、

『伝源頼朝像』

といわれています。

昔から、そう伝えられているが、確かではないということです。

京都神護寺の所蔵されているのは源頼朝像だけでなく、平重盛像、藤原光能がりは神護寺三像といわれ国宝に指定されていますが、

源頼朝の肖像画は実は足利直義で、平重盛の肖像画が足利尊氏であるという説をたてている学者さんもおられます。
その根拠に、頭の冠が鎌倉時代末期以降しか見られないことや、太刀が毛抜型になっているもの13世紀~14世紀のものと考えられています。
つまり、源頼朝がいた時代の衣装ではないということなのです。

ですから、今の歴史の教科書の中には「伝」という文字をつけたり、源頼朝の名前を出さずに「鎌倉時代の肖像画」として紹介されるところもあります。

僕が、この肖像画を観ていた時、神護寺のご住職らしき方が、肖像画について説明されておられ、
「神護寺と足利幕府との接点が薄く、頼朝、政子からの神護寺あての手紙が残っていることなどから、この肖像画が源頼朝と考える方が妥当です。」

「NHKなどが、あまりにも新説を重んじるところがある。」
と言っておられました。

僕は、ただただ、この肖像画を眺めておりました。

やっぱり、迫力があります。
頼朝像は、縦143cm、112.8cmもありますから迫力もありましたし、なんといっても美しい。

本当に見とれてしまいました。

さすが日本美術の最高傑作とされる肖像画です。
平重盛像もヨーロッパで高い評価を受け、ミロのヴィーナスやモナ・リザと引き換えに渡仏しルーブル美術館で展示されたこともあるようです。

源頼朝・平重盛かどうかはわかりませんが、非常に歴史的価値のある作品であることは間違いありません。

 
さて、
この源頼朝像をはじめとする国宝は、5月1日から5日まで虫払いのため、
一般に公開されています。(この期間しか見れません。)
 

神護寺 宝物虫払い

JR嵯峨野線「円町駅」JRバス「山城高雄」下車
 

 


英国王室と保津川下りのかかわり

2011.04.28

英国で4月29日、チャールズ皇太子に次ぐ王位継承順位のウィリアム王子(28)とケイト・ミドルトンさん(29)が結婚式を挙げれます。

この結婚式の中継は、英国国内だけでなく世界中に中継される予定で、まさに世界のビックニュースであることは日本のメディアの取り上げ方でもわかるところです。

 

さて、この結婚に関して、保津川下りの地元保津小学校では、ビックプロジェクトが慣行されております。

京都府亀岡市保津町の保津小の児童が、4月に結婚する英国王室のウィリアム王子に保津川下りの乗船を呼びかける手紙を送った。同小はこれまでもエリザベス女王やチャールズ皇太子に手紙を送っており、「東日本大震災があったので、新婚旅行で日本に来てもらうとみんな元気になると思う」と期待している。(京都新聞)

 

また、大それたことを…

と思われるかたが多いと思いますが、

しかし、あながち無理な話でもないかもしれないのです!

上の写真は、1922年(大正11)に、当時英国皇太子だったエドワード8世が保津川下りに来られる際、船頭をはじめとする関係者が船を準備した写真です。

  

さすが、VIPを船に乗船されるとうとこもあり、川の整備や船頭の健康診断、乗船する船頭は厳しい選定で選ばれたようです。

日本側の接待には、当時皇太子であった昭和天皇がされたようで、昭和天皇とエドワード8世(後のウィンザー公)の親交は戦後にいたっても続き、終生の間柄であったようです。

当時のエドワード皇太子が訪れたことにより、英国王室の日本の印象は、

「1に富士山、2に保津川下り」と語られているといいます。

その後も1924年(昭和4)イギリス国王ジョージ6世の代理として来日したグロースター公が乗船されたほか、1961年(昭和36)にはエリザベス女王の従妹であるアレキサンドラ王女が乗船、また、1969年(昭和44)には、エリザベス女王の妹であるマガッレト王女とスノードン卿が保津川下りを楽しまれています。

今まで英国王室 ファミリーが保津川下りに計4度訪れておられるということは、「1に富士山、2に保津川下り」というのは嘘ではないようです。


(左の姫が後のエリザベス女王、右の姫がマーガレット王女)※エリザベス女王の父ジョージ6世は、今年のアカデミー賞作品賞の「英国王のスピーチ」で有名ですね。

さて、

保津小学校の児童が英国王室に招待の手紙を送るようになったのは2006年からで、エリザベス女王やチャールズ皇太子にも送っています。そして、英国王室(バッキンガム宮殿)直々から返事が届いているのです。

その手紙には、「今年は行けないけれど来年は行く予定があるので、年末にもう一度お手紙を下さい」という内容だったそうです。

ですから、ウィリアム皇太子とケイトさんが保津川下りに来られるということが現実になるかもしれません!

 

私たち保津川下りの船頭としても、保津小学校の児童の活動を全面的に応援していきたいと思います。

  

さいたに屋


歴史から学ぶ…強靭な日本へ

2011.04.25

今現在、保津川下りでも新聞やメディアでもいわれているように日本に来られる外国人観光客が激減しているという現状を目の当たりにいております。

しかし、このような困難に私たち船頭衆たちは負けてはならないと思います!

 

激減といっても、保津川下りに来られる外国人観光客は皆無ではなく、「船頭ブログ」でも紹介しております通り、昨年よりは少ないものの多くの外国人が保津川下りを楽しまれていることも、また事実であります。

で、観光業に携わる僕たちは何が大切か…

何ができるか…

を日々苦心しながらも、

「どうしたら、お客さんに喜んでいただけるか!」

そして、日本のために貢献できるか!

あらためて、考えているところであります。

そこで、地道な行為かもしれませんが、外国人観光客の方々には、

 

「Please tell your Family and Friends about Hozugawa River Boat Ride.」

(どうか、保津川下りのことを、ご家族やお友達にお伝えください。)

 

「Please write ,about us your Internet.」

(どうか、私たちのことをインターネットで書いてください。) 

と嵐山でお別れする際に言っております。

 

このような、何気ない言葉でも日本が元気であるということを口コミで広め、

世界中でおこっている日本における風評を減らすていける活動だと信じています。

 

地道な活動かもしれませんが、私たち一人一人が、元気で生きている姿が、いずれ、また日本に来てもらえる架け橋だと確信しておるところです。

 

歴史をさかのぼれば、日本は先の戦争から見事に復興し、経済大国になりました。

それは、一人一人の日本の先輩方が

一生懸命に生きてこられてからであろうと思います。

僕たち日本人には、そのDNAを受け継いでいるはずで、

そんな先輩がたに負けないように、そして、未来の子供たちに希望をあたえられるように…

日本人が一丸となって復興し、支援していきたいと思います!

さいたに屋

 


保津川なう
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