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豊臣秀次の菩提所 瑞泉寺 そして角倉了以 (其の一)

2016.10.29

保津川を下り、京都の瑞泉寺というお寺に行ってまいりました。

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この瑞泉寺というお寺と、私たち保津川の船頭とは大変縁が深い関係があります。

20161029-223249.jpg(瑞泉寺ご朱印)

瑞泉寺は、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために角倉了以(すみのくらりょうい)が建立した寺院。
角倉了以は、江戸時代の豪商で、当時京都で三本の指に数えられるほどの大金持ちでした。その了以が慶長十一年(1606)に保津川を開削して保津川下りが始まります。
そして、その後、了以は慶長十六年(1611)に京都鴨川沿いに流れる高瀬川を開削する際に、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために瑞泉寺を建立しました。

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今回この瑞泉寺では、
本堂、「秀次公縁起」、「瑞泉寺縁起」、「秀次公一族の肖像画」、「伝来表具裂」、そして秀次公ゆかりの品々などが特別公開されています。

期間は、
10月28日(金)から11月7日(月) 
9時から16時まで

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ご由緒を辿りますと、
太閤豊臣秀吉の甥である豊臣秀次は、実子にめぐまれなかった秀吉の養子となり、関白の位と共に豊臣家を継ぐ立場でした。
しかし、秀吉の側室「淀君」に「秀頼」が誕生してからは次第に立場が疎んじられ、遂には文禄四年(1595)7月に謀反の疑いで高野山へ追放され、同月15日に切腹に追い込まれます。
秀吉の怒りはとどまることを知らず、
同年8月2日には、秀次の子供と側室の女性ら39人が、三条河原で公開処刑されるという悲惨な事件が起きました。

20161029-232343.jpg(瑞泉寺縁起)
時はながれ、事件から16年後の慶長十六年(1611)、高瀬川を開削していた角倉了以が、三条河原にある豊臣秀次の首とその一族が埋められた塚を墓として整え、菩提を弔ったのが瑞泉寺であり、そのことは寺に伝わる「秀次公縁起」「瑞泉寺縁起」に描かれています。

20161029-232506.jpg(豊臣秀次とその一族の墓所)
豊臣秀次と角倉家は、生前から関係があったようで、
了以の弟で
吉田宗恂( よしだ-そうじゅん)が、秀次の家臣で御典医、つまり秀次ご用達の医師でした。

20161029-233614.jpg(角倉了以像/瑞泉寺蔵)
宗恂は、秀次が処刑された後は徳川家康の御典医になっており、徳川家康と角倉了以を繋げた人物といえます。

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つまりは、私の保津川下りは角倉了以を通じて豊臣秀次とも繋がりがあるわけです。

(さいたに屋)


HOZUGAWAKUDARI

2016.08.20
その写真集を紀行記にまとめた「IN LOTUS-LAND JAPAN」(この世の楽園・日本)はロンドンのマクミラン社から出版され、ヨーロッパ諸国に「日本」というアジアの国が紹介されました。
その本に「保津川の急流」と題して、保津川下りが一章分を割いて紹介されいます。この書籍の影響は大きく、のちに英国王室をはじめオーストリアやルーマニア王室などの国家要人が保津川下りを望んで体験されるきっかけとになりました。
氏は保津川下りの体験を「舟は極楽浄土を流れる神話の川の上を漂っているかのようだった」と感想を述べました。「このような船頭たちが存在する日本の海軍は相当の強いのでは?」と神がかり的な船頭の手腕を絶賛されています。
世界各地を旅した写真家の目をクギ付けにした保津川船頭の身体能力と技術力の高さは、間違いなく日本が世界に誇る伝統技術ではないでしょうか?今も変わらず継承されているこの保津川船頭の操船技術ですが、それが現在、世界に誇れる伝統技術として見落とされているのなら、インバウンド華やかならし今日に、もう一度、海外へ向かってその価値を問いたいです。
同本は今、翻訳本「英国人写真家の見た明治日本」(講談社学術文庫)として販売されていますので、興味のある方はお求めください。明治期の日本、そして保津川下りの船頭が持つ身体能力と操船技術の高さをヨーロッパの人々が驚きをもって賞賛するとともに強烈な印象を与えたことがわかる一冊です。
※ハーバート・G・ポンティング : 1870年、イギリス生ま れ。 写真家。1910年、スコット南極探検隊に参加し、写真と映像による記録を残す。著書に“The Great White South”などがある。1935年没
保津川下りさんの写真

嵯峨祭

2016.05.23

昨日は保津川下りの着船する嵯峨嵐山地域の祭である嵯峨祭の還幸祭がおこなわれました。

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この嵯峨祭は野宮神社と愛宕神社のお祭りですが、始まりはかなり古く最低でも450年の伝統を受け継いでいて、南北朝時代の南朝と関係が深いようです。

20160523-105654.jpg(天龍寺)

天龍寺は南朝の後醍醐天皇の菩提を弔った寺院でもありますが、足利尊氏が夢窓国師に祈願して開山した寺院であるため、つまりは北朝の影響下にあります。

20160523-105737.jpg(天龍寺に祀られている後醍醐天皇像)

嵯峨祭の行列は清凉寺の前にある御旅所から大覚寺へお昼に集合します。これは南朝の拠点が大覚寺だからです。南朝を「大覚寺統」というぐらいですから…
(対して、北朝は持明院統)

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行列は、渡月橋から天龍寺の門前を通ります。
これは北朝の天龍寺に対して南朝の権勢を見せつけるためだともいわれており、

つまり天竜寺 VS 大覚寺・清凉寺・愛宕神社・野宮神社
なんですね…(という時代背景があったのでしょう…)

ちなみに、元禄4年(1691年)、松尾芭蕉が見物しており「嵯峨日記」に記録されています。

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この行列の主役とも 剣鉾の剣差の男衆!!
剣鉾を腰から担ぎ、その鉾を前後に揺らします…
すると「リーン」と剣鉾につけられた鈴がかん高く鳴ります!
剣鉾の長さは、約10メートル、重さ70キロもあるそうです。

想像つかないでしょう!!
この70キロの鉾を持てたら、清水寺にある弁慶の鉄の錫杖を持てるほどです。
それもわかりにくいか(笑)

力だけでなく、熟練のテクニックと精神力が必要で、かなり練習を積まれるそうです。

僕たち船頭も感服いたします!!

(さいたに屋)


龍の寺には新緑がよく似合う!(春の京都 禅寺一斉拝観)

2016.05.13

今、京都の禅寺では、重要文化財など寺に伝わる宝物が特別公開されています!!!

これは臨済宗の宗祖で中国の僧臨済義玄臨済義玄と、日本の僧で同じく臨済宗の中興の祖・白隠慧鶴のご遠忌を記念して行われ、京都市内の寺など65か所で5月22日まで続きます。

今回、保津川の船頭(ボッチ)が行きましたのは、
相国寺
です。
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相国寺は、臨済宗相国寺派大本山で、足利義満が建立。
末寺は日本全国に約100ヶ寺もあり、
なんと、金閣寺や銀閣寺も属します。

今回、相国寺で特別公開されているのは、
「法堂」と「方丈」
※法堂(はっとう)とは、簡単にいうと偉いお坊さんの説法を修行僧が聞き学ぶ場所です。(他の宗派では講堂とも呼ばれます。)

法堂には運慶作と伝わる本尊釈迦如来像が安置され、
「鳴き竜」で知られる相国寺の法堂(重文)天井画「蟠龍図」を拝観できます。
この法堂は、慶長10年(1605)豊臣秀頼が建立し、天井画の「蟠龍図」は狩野光信(狩野永徳の嫡子)が描きました。
※(保津川開削の一年前か…)
非常に感慨深いです!

20160513-094236.jpg(蟠龍図)「写真は複写されたもの」

龍を見上げて拍手をすると「カラカラ」と龍が鳴くように聞こえることから「鳴き竜」で有名ですので、かなり叩きました。

自分の手を叩き過ぎて、今日は手が痛い(笑)

方丈も拝観でき、襖絵はさすがに素晴らしいもので、また、
北側のお庭の座ると時間を忘れます!!!
※方丈とは、寺の住職の住居といえばわかりやすいでしょう

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臨済宗のお寺には龍がよく描かれ、今回は相国寺だけでしたが…

天井龍でしたら、

大徳寺、東福寺、天龍寺の法堂。(天龍寺は通常公開)

龍が描かれているものでしたら、
妙心寺三門…

建仁寺 開山堂の襖絵「龍虎図」。

が5月22日まで特別公開されています。

(保津川のボッチ)


高雄神護寺 伝源頼朝像が観れます!

2016.04.30

明日から神護寺にて宝物虫払い行事がおこなわれます!!

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国宝 源頼朝像、平重盛像、釈迦如来像、潅頂暦名ほかを展示。

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僕ら世代は源頼朝像といえば、この絵でしたが、今は「伝」がつくらしいですね〜
一説には源頼朝像が足利直義、平重盛像は足利尊氏じゃないか?
といわれています。

これに対し、神護寺の御住職は、
「神護寺は、室町幕府の足利家より鎌倉幕府の方が関係性が濃いので、私はこの絵は源頼朝だと思います!最近はNHKを初めてとして新説!新説!と、それがあたかも通説のように論じるのには疑問を感じます!!」
とはっきり言われていました。

ま、誰であろうと、僕は大好きな絵ですので毎年見に行っています!!!

初めて見た時の印象は、
「デカっ!!」

よくこんな絵が何百年も現存したものだと感心しますわぁ

日本人なら一度は行くべき!!!
神護寺の宝物虫払い行事は、

5月1日~5月5日(9:00~16:00)まで
神護寺書院にて
拝観料800円
書院の石庭「灌頂の庭」も公開されます。

ちなみに、オススメのコースは、
保津川て清滝川の合流地点から上流に沿って高雄まで行く道です!!!

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カジカが鳴いて、また新緑と涼しい風が最高です。

本尊の薬師如来立像さまも国宝ですので参拝をお忘れなく(*^^*)

あ、それからかわらけ投げも(^-^)/

(さいたに屋)


因縁を感じる仏像 (阿弥陀如来像)

2016.03.26

保津川が流れる亀岡市に 那須与一堂というお堂があります。

20160326-180010.jpg(那須与一堂 亀岡市) 那須与一堂の本尊は阿弥陀如来像であり、平安時代中期に天台宗の僧だった源信の作と伝わります。

20160326-180120.jpg (恵心源信像。聖衆来迎寺所蔵 )【942ー1017】 この源信は、 日本人の浄土観・地獄観に影響を与え、著作『往生要集』おいて、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じました。 念仏思想の基礎を築いた僧であり、後の法然や親鸞の浄土信仰の教えに大きく影響を与えた僧といえます。 僕は、所々、訪れる寺院で恵心僧都(源信の尊称)を名をよくみます。 例えば、京都の即成院や 、愛宕山中腹にある月輪寺の本尊の阿弥陀如来は源信作といわれています。 そして、僕の檀家寺である嵯峨薬師寺の阿弥陀三尊は源信作といわれ、また、なんと!! 脇仏の 勢至菩薩には櫓(ろ) 観音菩薩には櫂(かい) を持たれています。

20160326-180655.jpg(嵯峨薬師寺ホームページより) つまり阿弥陀三尊が船に乗り、死者の魂を救うお姿なのです。

20160326-180601.jpg(嵯峨薬師寺ホームページより) 現在、保津川下りの船頭をしている僕の檀家寺に船にまつわる仏様がおられるとは、なんという因果でしょうか!! ちなみに 僕が現在住む地名は「法楽寺」という町名で、この辺りに法楽寺という寺があったそうです。 この法楽寺を中興再建したのが源平の合戦で活躍した武将 那須与一!! その那須与一再建したことから、那須与一堂と今は残ります。 しかも、その本尊阿弥陀如来像は源信作。 そして、同じく源信作の本尊阿弥陀如来像がある京都の即成院は、那須与一の墓があります。 (写真の仏像は、嵯峨薬師寺の船上阿弥陀三尊像。本来は船に乗られていたようですが、昔に寺が火災にあい船の部分は消失したようです。) 4月9日(土曜日) 午後14時〜16時 那須与一堂(亀岡市下矢田町)にて、 ↓このようなイベントがあります

第13回「亀スゴっ!那須与一堂」

(さいたに屋)


明智光秀公の末裔、歴史研究家の明智憲三郎さんが保津川下りにご乗船!!

2016.02.29

昨日、戦国武将 明智光秀の末裔で、独自の視点で本能寺の変の謎に迫った「本能寺の変431年目の真実」の著者である明智憲三郎さんが保津川下りにご乗船頂きました!!

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明智光秀は、保津川下りの乗船地である亀岡市(当時、丹波亀山)の城主であり、本能寺の変の時においては、丹波亀山城から織田信長がいる京都本能寺を攻めました。

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(明智光秀肖像画 本徳寺蔵)

つまり亀岡、明智憲三郎さんにとっては先祖である明智光秀ゆかりの地であり、主君である織田信長を討つという大決断をした本能寺の変の出撃の地でもあるのです!!

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(丹波亀山跡)

明智憲三郎さんは、 一昨日、同地亀岡市において、 『明智光秀と本能寺の変、そして亀岡』という題材でご講演されました。

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参加者は120名を超え、その多くは亀岡市民の方々が大半をしめたようです。やはり亀岡の地において、明智光秀という人物と、本能寺の変は大変興味をそそる事柄であるということでしょう。 また、亀岡内では、明智光秀をNHK大河ドラマの主人公にしようという運動もあるようです。

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ご講演の内容は、ぜひ明智憲三郎さんの出版されている「本能寺の変 431年目の真実」や新刊の「織田信長 四三三年目の真実」をぜひお読み下さい。 ただ、少し述べるとしたら、 昨今の歴史学者は、本能寺の変の研究において「軍記物」から引用や参照することが多く、しかもそれがあたかも定説となり、大河ドラマや時代小説に大きな影響を与えているということです。 例えば、豊臣秀吉が書かせた「惟任退治記」、秀吉伝説を作った「太閤記」、光秀伝説を作った「明智軍記」などなど。 「勝者は、勝者の理屈で敗者を描くので、勝者の都合の悪いことは一切書かない。」 「本来は、第三者側からの記録や日記などの資料を集めて、説には裏付けが必要、つまり現在警察が事件を捜査するような『歴史捜査』が必要なはず…」 ということが語られていた一部です。

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私たち保津川下りの船頭にとって、亀岡の歴史が大いに盛り上がることは大変ありがたいことで、また、それにより歴史ファンが亀岡に訪れていただければ更に嬉しいことです。

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明智憲三郎さん、本当にありがとうございました。

↓明智憲三郎さんのブログ

http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai

 

(さいたに屋)

 


琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語 ~その参~

2015.11.25

俵屋宗達の作品の中で最も有名な絵が「風神雷神図屏」です。
建仁寺所蔵ですが、現在は京都国立博物館に寄託されたいます。

この『風神雷神図屏』は、宗達が1632年に素庵が死去した後、鎮魂のために
描いたのではないかという仮説を立てているのは関西大学の林進先生です。

実はこれまでの俵屋宗達と角倉素庵の友情物語は林先生の説に基づいて書いています。

先生の説によると、寛永四年(1627)にライ病(ハンセン病)を患った素庵は、当時のらい病者への偏見と
いう掟に従い、世間との関係を絶って嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲します。

ライ病は、皮膚が白くなる「白らい」(ビャクライ)という症状があり、素庵もその症状が発病し
身体の皮膚が白く変色していました。宗達は素庵への鎮魂の為にこの絵を描いた事を、
自らの心情を作品で表現しようとしたのでしょう。
本来、伝統的には赤く表現されていた「雷神」が、なぜ宗達の絵では「白い」のか?
風神雷神絵を考察するときに見過ごすことができない視点なのに、これまで説得力のある
説明はなされいません。宗達ほどの作家が何の意図もなく赤から白に変えることは考え難いです。
これについては宗達研究の第一人者の山根有三氏でさえも、白い絵具を使うのが「好きだったから」
と全く踏み込んではいないといいます。

林先生は、雷神の体を白色に変えたことこそ、素庵の姿を重ねたものであり、鎮魂の表現
だといわれています。
続けて、もう一方の風神には宗達自身を重ねることで、素庵の元へ寄り添おうとする
自身の心情を表現しているというのです。

理不尽な境遇で苦しみ死んだ菅原道真の縁起を描いた絵巻に、怨霊と化した道真(雷神)が
御所に雷を落とす場面を描いた雷神絵。その絵を宗達は本屏風の二神の姿に転用したのです。
実業家のみならず文化人とても輝かしい業績を残しながら、不運な晩年を過ごさざるおえなかった素庵の生涯。
その無念の心境を道真に重ね、雷神として描いた宗達、そして自分も風神に寄り添う。そして、
今にも雷を落とし災いを起こそうとする雷神(素庵)に、右側から駆け寄り、
「おーい、素庵。俺も来たよ。昔のように楽しくやろうよ。今までのことは良いじゃないか。」と
なだめ、話しかける宗達の心情。

雷神の悲しげな表情に、世間から見捨てられた素庵の不運な人生がにじみ出ているようです。
その人物像が謎に包まれている宗達ですが、この作品が林先生のいう心情から
生み出されたものだとしたら、友情と義理厚い新たな宗達像が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

本来、実業家としても、知識人としても近世日本史の一ページを飾ったであろう人物である角倉素庵が、
未だ全くをもって‘無名’の存在であるのは、この晩年の人生が大きな理由ではなかった!
素庵の魂は、今年の琳派400年をどのような気持ちで眺めているのでしょうか。
雷神の絵を見ながら、静かに語りかけたいと思います。


琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語。~その弐~

2015.11.18

父了以亡き後、角倉家の家督を継い素庵は、幕府より淀川通船輸送管理者や
木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど
隆々たる事業展開を遂げましたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病
ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになりました。
素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲します。
当時、ライ病は、一族のケガレとして乞食として放浪の旅 に出るか、
生涯、物乞いの生活を送るか、どちらかの選択せざるおえないほどの差別と偏見を受けていました。
素庵の息子たちは父の心中を察し、嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲させたのです。
その後、追い打ちをかけるように素庵に不運が襲います。素庵は光を失ったのです。
それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 『文章達徳録』の増補と『本朝文粋』の校訂を続行するなど
、いのち尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだのです。
しかし、当時、ライ者に直接関わることは、世間の掟に背くことであり、世間から見捨てられた身である
素庵に書籍の出版を協力する者はありませんでした。

そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した『本朝文粋』を古活字版で刊行することで、
素庵の大恩に報いることを決心したのでした。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意でした。
事実、宗達はこれを期に筆を置く覚悟があったといいます。
そして素庵が校訂した『本朝文粋』は寛永七年(1630)に出版されました。

しかし、運命は思わぬ方向へ宗達を導きました。
これを読んだ後水尾院が絶賛し、その刊行に対する褒賞として、宗達に「法橋位」を贈ったのです。
宗達は慣例に従い、「楊梅図」ほか屏風絵 三双を描き、後水尾院の仙洞御所、
東福門院の女院御所、明正天皇の禁裏御所に進上しました。
すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなったのです。
その後、宗達は寛永九年から十年にかけて「風神雷神図屏風」を描き、
益田家本「伊勢物語図色 紙」三十六図を描くなど、、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから
注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟きました。
 
素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき 
嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられました。
そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守ったのです。


琳派400年、俵屋宗達と角倉素庵の友情ものがたり。~その壱~

2015.11.11

「琳派」とは江戸時代初期に本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し尾た芸術表現技法のことで、
彼らに強く影響を受けた尾形光琳や乾山兄弟によって後年発展しました。
漢画の技法をその基礎におきつつも、大和絵の技法や題材も取り込んだ、
独自のデザイン性に富んだ様式を編み出しました。
京都の北・鷹峯に光悦が開いた「光悦村」から日本中へ広がった芸術様式・琳派が生まれて400年。
その記念して今年、京都では様々が行事が行われています。

そしてこの保津川にもこの琳派と縁浅からぬ物語があることをご紹介したいと思います。
保津川下りの創業者といえる角倉素庵と、琳派の人たちとの友情のがたり。
角倉素庵はもうご紹介するまでもなく、保津川下りの創設者・角倉了以の息子で了以の片腕として
保津川、富士川、高瀬川開削を成し遂げ、朱印船による海外貿易を手がけた大商人です。
素庵は晩年、事業を息子たちに譲り、生来、希望をしてた文化創作への道を選びました。
そこで出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力を得て「嵯峨本」といわれる古活字本を出版しています。
西洋から伝わった最先端の木活字を用い、用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本として
世界的に高い評価を得てる嵯峨本には「伊勢物語」「観世流謡本」など13点が現存し、
その編集者、作成者の名を取り、光悦本や角倉本ともいわれています。
特に俵屋宗達と素庵はお互いの才能にリスペクトされ、友情を深めていきます。

そしてその後の素庵の数奇な運命が、宗達に傑作を生み出す源になるのです。


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